わたしも記事でいくつも健康に関するものを書いている。
精神衛生、公衆衛生、医学、科学全般の記事が世界中から毎日のように届く。
おそらく大抵はいざ病名がついてから調べて対策をたててみる。
ある程度興味深いので、流し読みくらいはするが、所感はいつも同じだ。
世界中の共同体で蓄積された生活習慣の知恵をバランスよくやっていくだけでよい。
病気の原因は近代化以外にはほとんどない。
せいぜい他の長寿地域との比較が役に立つくらいで、目新しい発見とか特効薬なんてないし、あれば医者が勧める前にみんな知っている。
古典的に健康な感覚、つまり心持ちから思考すれば、論文や記事は無意味なものが多い。
人権は仁にしかないのだ。
非人間的な日本人や大衆の心持ちでいくら思考しても広義の健康つまり幸福は実現しない。
歴史や古典をいかに正しく理解するように努めることができるか?
そのための環境整備調整にいかに心を砕いたか。
各々の得意分野を尊重しあったか?
他人のために厳しく修正のための言動ができるか?
すべては自分の心持ちから出てくる。
健康を血液検査や悪性腫瘍などで測ろうということ自体が無意味だ。
謙虚さは人類の歴史的叡智を深く学べる心である。
上位者にへつらい、権力者にこびても、劣等感で恨んでも、自分の努力でなんとかできると驕っても、この宇宙空間の自然環境ではまったく役に立たない。
あさましい近代の動物化した人間は、昨日今日自ら望んで動物化したわけではない。
かつての農奴や奴隷と同じだ。
人になり、人であり続けることが難しいのは、地位や資産があっても同じ。
日本の人権分野の遅れを先進国の知性から指摘されている重大さが、健康という単語と切り離されている不自然さに人間として違和感がある。
日本人大衆と知識層には正常さの基準、健康の基準に明らかな誤りがある。
歴史と古典を消し去ろうというのは、日本人の祖先、人類の祖先に対する不健康な冒涜である。