FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

クラシック入門プログラムに違和感ある演奏 東響 東京オペラ 2023年4月23日

プログラムはメンデルスゾーン真夏の夜の夢で始まる。

わかりやすく言えば、どうでもよいお通し。

ただ流しただけのあっさり風の単品チーズバーガー。

バイオリンはさすがに繊細な発音だが、ほかがあまりに素っ気ない。

序曲的な扱いのまんまで、派手な化粧の客引きと紙一重

どうでもよい感がひしひしと伝わってくる。

二曲目はショパンのピアノ協奏曲第二番。

ありきたりな才能は、特筆すべきものがなにもない。

ショパンのこじ付け的なオケ伴奏の雰囲気が浮き立つとのめりこめない。

オケ楽員がまるで優秀に忖度政治にまい進している自民公明議員たちに見えてくる。

そしてメインの新世界より

これは、さすがに無理だと思った。

曲の運びが気まぐれすぎるので、調子が狂う。

イムジチの四季を聴いたあと、アマチュアの四季を聴いたくらいのギャップを感じる。

基本的に最近の指揮者、演奏は速度が速すぎる。

この世には高齢者障害者、未成年が存在していることをまったく顧みない商業主義そのものの、人を急かすのが当たり前と言わんばかりの曲運びと常軌を逸した反古典的なフレージングや速度を掛け合わせた自由奔放という名の無軌道な解釈と表現。

もはやクラシック音楽とも言い難い次元に突入していることがわかる。

今日のコンサートだけを聴いてそう感じるわけではない。

こういう常軌を逸するレベルの演奏をたくさん聴いてきて、現代クラシックの危機を感じるのだ。

味わい深い調和と自然のやさしさを感じさせる感性をベースにしている演奏ではない。

ソリストが若いからそういう錯覚はできるが、実際はただ若いだけである。

これからの世代は、こういう演奏をお手本に刻み込んで成長するわけだから、もう未来がただきゅうくつで非人間的な窮迫した余裕のない音楽もどきになることは目に見えている。

いや、すでにそうなっているようにすら感じる。

数年前から、バロックやガット弦に魅かれているのは、そんな感性のズレからきている自然生理現象だ。

そこまでコミコミでクラシック音楽のプログラムを選ぶ必要がありそうだ。

現代クラシック音楽の質はかなり低い粗雑なものがある。

むかし誰かが言って笑っていた言葉を思い出す。

狭い日本、そんなに急いでどこへ行く。

現代人なら、狭い地球、そんなに急いでどこへ行く、となろうか。

憲法審査会や学術会議問題で急ぎに急いでまともに審理しないのは・・・。

真摯な演奏か、紳士的な演奏か、はたまたギャング団の乱痴気か。