筆者がバイオリン好きでクラシック音楽好きなのは何度も書いていて、今更という題。
母への恨みというか愚痴でもあるが、ピアノの音程でバイオリンの音程を修正された記憶と傷と音感の狂いは消えない。
11才までずっと間違ったピアノ音程で怒鳴られたことは、苦痛だった。
合奏発表会が楽しかったのは、バイオリンの音程で弾けるからだった。
個人発表会も教室主宰の先生が調弦してから舞台へ上がるので純正律で弾きやすかった。
残念なことに、11才までついていた先生は平均律をまったく修正しなかった。
13才で主宰の先生がホーマンを合奏してくださり、14才でようやく調弦のD線をピアノより少し低くとることを教わり、社会人の管弦楽演奏参加で純正律をたくさんの音階で体感したことで、一気に音程がとれるようになった。
短三度、長三度、短六度、長六度、四度、八度、十度音程をしっかり覚える前に、フレッシュの5番までの段階でやめさせられたことは人生を狂わせた。
この時の主に1年余りが貴重な音程を覚えた時期。
しばらく弾かずにあとはピアノすらない環境で劣化し続けて、もはや音程がわからないところまでいくと、左手の形も崩れるし、右手が連動しておかしくなった。
シュラデークをやりながら音階をやるにつれて、純正律の音階をしっかりひとつずつ覚える必要が綺麗に見える現在が希望の光に満ちている。
一曲一曲の音程をとりなおし、一音一音が輝きをもってくるが、連動して途中までできていた左手の形を思い出し、右手もみるみる弾きやすくなってきたので、音程を完全に覚えるまでのこれからの数年間が勝負になる。
楽器と私が一体になる喜びは、音楽の起点だ。
個人が完璧な音程で計算通りにリズムをとって豊かなハーモニーを奏でる段階になってから、合奏や管弦楽が成立する。
全員がソリストをできる人たちでなければ、合奏なんて無理だ。
33年前に15セントを越えて音程が狂う御婦人が1人社会人オケに参加してきたとき、それがどれだけ目立つかという経験をしている。自分も団員も±5セントくらいしかズレはなかったように記憶している。その社会人オケでは、たいていバイオリン奏者は音大卒とその後音大進学組と医者や医学生などのメンバーばかりなので音程があっていてもあたりまえなのだ。
その後の人生でそんなまともなアマの演奏を聴いたことがない。(関関同立東大京大オケあたりはまだ全部聴いていない)
騒音楽団はみんな合奏が優先の人たちの集まりである。
美しいハーモニーは、完璧な音程の奏者集団でしかできない。
有害無益、百害あって一利なし、ストレス、自傷行為のアマオケはすぐにやめたほうがよい。
脳神経にも影響するかもしれない。
きちんと指摘してくれない教師に習うのもすぐにやめるべきである。
ありえない。
そんなものはバイオリンではない。
音楽ではない。
一途に美しい音を求めてきちんと1音がとれるように覚えていくしかない。
そして大切なことは、きちんとやれば、これほど単純で誰でもできるものがないということだと思う。
確かに耳を作るためには手間暇はかかるし、確認作業が時にもどかしいのだが、ゆっくり覚えると難しいわけではない。
そもそも専門家の管弦楽を美しいと感じているのだから、それは至極当然なことなのだ。
問題は騒音に耐性ができて麻痺して音感と神経をずたずたにしてしまう講師や団体が無数にあることであろう。
楽しむために我慢するという矛盾を回避するべきだと思う。
楽しむためにはひとつずつ完璧に覚えていくことだ。