FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

死刑も殺人

人を殺してなぜ死刑にならないのか?

とても疑問に感じる人が多い。

人間は生き物だから、という理屈も役に立たない。

衝動的あるいは個人的主観的な殺人を刑法で裁くのは大切だが、問題は死刑という公権力による新たな殺人を認めるのが、客観的合法的である途上国である。

報復的な意味合いが野蛮で未開なだけではない。

権限を認めるかどうかは、未開の国と先進国では真逆。

国家観を考える。

国家は国民の生命財産を守る使命を有するが、死刑は真逆。

実際上抑止力にならない。

統計はきちんとみなければならない。

本来ありえないはずの自殺は容疑者多数による他殺という命題とも向き合えなければならない。

条件の補正、文化宗教などの違い、犯行に及んだ者の特性を総合的に分析評価すれば、死刑は回避するべき最後の最後の切り札でしかない。

安易に乱発する軍事国債のように死刑で抑止力と解決だというのは、単細胞な野蛮人だと断ずるより他はない。

そもそも現代に死刑を遺していることが重大な問題だ。

犯罪抑止力をきちんと学べば、死刑だけではとても効果が見込めないことはわかるだろう。

逆効果の殺人も多発している。

死刑という殺人が良いのなら、誰が誰を殺しても自由であり、裁かれたら罰を受ければ無罪なのである。

そらどんどん殺せ、もっと殺れ。

死刑が悪い、廃止にせよというのは、国家社会として、全生命を尊重しましょう、殺人は絶対悪ですよというメッセージであり、共通認識と合意であり、まっとうであるからこそである。

これは性悪説に依り、8割の国民の日常的殺意をなくす方へ誘導する役割を国家に期待する選択肢があることを示す。

どうしたって殺人は起こる。

起こるからこそ、先進国でも刑法は存続しており、起こらないように死刑を廃止するべきだと考える。

とにかく報復的感情はレベルが低すぎる。

バカの鳥居キチガイにならないように、日本人として自覚を改める必要がある8割の人達に、敢えて考えてほしい。

文京区護国寺の一景(尾崎豊告別式会場脇)