趣味嗜好は各人各様。
身近な人の影響はかなりある。
元気なころの祖父(母方)はゴルフと庭の手入れ。
庭の手入れの道具が納屋と倉庫に揃っていて、わたしもしばしば手伝った。季節ごとに樹木や芝の手入れをし、毎日除草している。
早朝の除草をして出社前に祖父は素振りをやるのだが、基本フォームをガチガチにチェックしている。それがあまりに丁寧でゆっくりなので、子供心に何かを感じ取った。
祖父の部屋や出窓などにところ狭しと並んだ沢山の優勝トロフィーはゴルフ場常連の実力者の証。
シングルスコアはパーでほとんど回れるから趣味嗜好というのはそういうものを指すのだと思う。
ハンデで連想するのだが、祖父は身長が低かった。
女性用のゴルフバックとクラブのセットを使っていた。
恥ずかしがりもせずに、「女性用じゃがこれが丁度良いんじゃ」と話してくれた。
器用さなんてほとんどないように見えた祖父はわたしの目には努力家に映った。
人と同じことを同じくらい努力してもダメだとよく言っていた。
地味な毎日の日課や純和食の質素な食事と楽しいゴルフ場通いがなぜあんなにも静かで真剣な深い喜びに満ちた笑顔をもたらしていたのか、自分の寿命が見えてきた今はその心もよくわかる。
一般に趣味嗜好は資産でやるものでもあるが、日本人はむしろ社会的地位でやっている面が大きい。
これは日本的な難しさであり、しかしどんなに資産があっても地位があっても、心がなくなればできなくなるものだ。
突き詰めると趣味はゴルフなのか音楽なのかというジャンルの違いよりも、心が何を求めていてどんな生涯を送りたいのかという人間としての魂の嗜好であり、社会や祖先や人類への恩を返すための感謝の表明の一形態だ。
欲求充足のレベルが優勝だけではないのは当然だが、なんのための優勝、なんのための基本練習、なんのための健康や会員権なのか。
いずれにしても80代後半までコースを回っていたのは素晴らしい人生だ。
70代のころに「バイオリンは良い。歳をとってもできるから。ゴルフはキツいからなあ、年を取るとキツくなってきた」とバイオリンを弾く幼稚園児のわたしに話しながら楽しそうにしていた。
中途半端にならないように最善を尽くす姿勢をいつも示していた。
わたしは早起きが不得手で継続できない。
いつも張りつめた空気で尊敬するところが沢山あった。
歳をとったら弾けなくなる奏法を覚えて、技術崩壊が進行し、もう少しで命が終わるかというところだったが、中年でもやり直しのスタートに取り組めるならば、祖父の言った通りになる。
真剣な学習の機会を得て天寿を全うすべく、1日でも多く早起きできればよいのだが、最近の狂乱物価は民の意欲を奪うレベルで将来的に危険なものすら感じる今日この頃だ。
一昨日、ユーリの毛がえをした。
3日目の今日は馴染みだして美音がしだして、もはや悩ましい。
こちらの弓にはアルシェのテノールを塗って、丁度よい音色が出ているようだ。
母方の先祖代々贅沢はいましめられる。
どこまでも質素な必要最低限の経費を極めていかなければならない。
宗旨がえしたとしても、資産が大きい世帯であっても、無駄のない努力を尽くす生活態度は変わらない。
博打は打てないからこそ基礎に徹するように教えられても、ようやく取り組めるのがずいぶん遅れたものだと悔やまれる。
ユーリの弓は傷んで扱いが難しく音色が魅力的だが内向的な性格。
試してみて、やはり新作には古いものを合わせるのが一番弾きやすく音がよい。
苦肉の策とも苦心惨憺とも言えるし、心底真剣な喜びも感じる。
毛の量を多めにイタリア馬毛で音色を最大限表現できる条件にした。
現状の中では奇跡的に素晴らしい。
観世音菩薩ではないが、世の大衆の悲嘆と慟哭を夢寐にも忘れていない。
みな同じ余生は定まらず、個人の趣味を侮るべきではない。
世のため人のためなんてたいそうなことではないようで、ありきたりな営みが千差万別なものを、いかに深めるか広げるかという楽しみをただ音でやろうというだけのことなのだが。