FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

人生の相棒 このバイオリンに決めるまで

f:id:FujiYama:20210830000506j:plainフルサイズのひとつ前の楽器は少し年数の経った楽器で、とても情緒を感じてバイオリンが好きになった記憶がある。量産楽器ばかり使っていると味わえない感覚だが、まだ子供だった私はそれが贅沢かどうか考えが及ばなかった。

フルサイズのバイオリンはちょうど中学生の時にレッスンを再開したころ買ってもらい、断続的ではあるが30代後半まで弾いていた。100年くらい前のパリ工房のラベルだったが、周囲のコンクール用の楽器と比較して少し寂しい音量だった。絶望的だったのが低音の鳴りと最高音の純度だった。合奏や室内楽のような中途半端な位置ではなんとか使えなくはないという程度。一番長かったのがオイドクサセットで結局いろいろ試してよい弓も合わせたがどうしても納得がいかない結果。親は大人になって自分で買えばよいものとして考えていたから、いいかげんで無駄な出費であり、健全な技術的成長を阻害する楽器だった。

20歳ごろモダンイタリーらしい楽器を少し借りて使ってみたが、急には他人の楽器が弾けないことに気が付いた。音の確かさや音色などがいくら優れていても、弾きこなすための期間が必要だ。楽器の特性にあわせていく奏者の奏法の変化というのがある。急に弾けるのは量産楽器くらいで、実用性がない。

関西の大学で合奏仲間からある楽器屋を紹介されて、そこで紹介されたモダンフレンチの印象が深い。あまりに滑らかでクリアな音がして気に入りかけたが1000万円クラスの楽器はぜいたくだと西洋音楽を知らない祖父に却下された。

同じ教室の父兄でピアノ講師の方に、娘さんが使わなくなったイタリアンオールドを使わせてもらう機会があったが、底なりのする甘美な音色の楽器で、ぜんぜん使えるのだが、両親に却下された。弓もオールドでなかなかの音。

それからしばらくして30代になり、名器をたくさん弾かせてもらい、新作とモダン楽器もたくさん弾かせてもらった。

これは予算があってどこかで決めたとしても、その後やっぱりあちらの楽器の方がよかったという羨望や後悔ばかりが発生するものだから、安易に高額な出費はできない。

バイオリンの音の違いを二次元の分布図にするようなイメージで一台一台記憶に焼き付けていく。

いくつものストラディバリウスの違い。アマティやガスパロの特性や特徴。

ガルネリファミリーの特徴と違い。

録音とホールで聴く音と楽器屋での直の音のラグを計算して頭の中で補正して比較する。

クロッツ、ガダニーニ、プレッセンダ、ガダニーニスクール、ゴフリラ、リュポなどすべては記憶が難しいが、弾けるだけまず弾いてどんな音かひたすら試す。

そこで気が付いたのは、楽器による心の変化。耳から入ってくる音と手触りから自分の心が変化することは間違いなかった。そしてその変化の内容が、自分を誤らせもするし正しく導きもするという極端な違いをもっている。ガスパロで発狂した人が多いというのは本当だなと確信したし、ガルネリの芳醇で底なりのする音とギラりとする高音に憑りつかれたら逃げがたいのも確かである。良くも悪くも毎日触れる楽器は確実に人間を変える。

弾いていても後味もすっきりしている岡崎慶輔氏使用のストラディバリがよい楽器で、その系統のものを選ぶのが気持ち的に楽で健康的だなという印象を持った。

次に新作楽器をたくさん弾いてみる。有名なイタリア人のものがどれも気に入らない。カラっとしているが薄っぺらい音に感じる。少しウエットなガルネリ系の響きの方がしっくりきた。100万から少し年数のたった800万くらいのイタリアものをためして一番気に入ったのはキャノンモデルだった、その楽器は全体的に抜け渡って響く甘美な音色のキャノンコピーで人気の高い作家である。キャノンモデルなのにガルネリ特有の高音のギラツキがないのが特徴だった。高音もふくよかでなめらか。

ほどよい感のある音がするものは240万以上の数台だった。

その後、時折楽器屋で試しに弾いてみることがあったが、中途半端なものには手を出すべきではないという信念のもと、ほとんど本命入手を諦めて久しく年数が経過する。

自分はどんな音楽が好きで、どんな音が好きで、自分の性格はどんなもので、どういう人生を歩みたいのかというところが、楽器選びの基準になるが、その選択のためのお勉強を10年以上してきたことになる。

最初は鈴木鎮一とその弟子の音、演奏がまずレコードと教室で耳から入ってきて、10代でスターン、ハイフェッツグリュミオーのCDに多大な影響を受ける。20歳前後ではオイストラフストコフスキー、イムジチのメンバー、シェリング諏訪内晶子を聴き込む。30代になるとパールマン、ヒラリーハーン、レーピン、堀正文、篠崎史紀、ベロニカエーベルレ、ビクトリアムローバ、40代になると原田幸一郎、戸田弥生、小川響子、ベンゲーロフ、エルマン、クライスラーヤンセン庄司紗矢香,神尾真由子、石上真由子、小川恭子、岸川りほなども聴くようになる。時々スターン逝去の報などを想起する。

CDとホールと自分の音を行ったり来たりして、ストラディバリとガルネリの魅力が強烈すぎてどちらもよいで片づけてきた。ふらふらした決めきれない、両ブレする自分の嗜好性だが、それはそれで別に問題がないのではないかと思ってきた。

方向性のひとつはガルネリかストラドか、もうひとつがクリアがソフトかである。

一台に決めるならどちらが好きかと考える。

ガルネリ、あえてガスパロ系とするが、今までのこのもっとも魅力的で有望な選択肢が消えた理由は、聴く側でなくて自分が曲を弾くときに入りやすいか乗りやすいかというところだ。自分が弾きたい曲それぞれが求める音の領域が広いのはどちらかと考える。

コアがしっかりしている分だけ表現の幅が狭いガルネリの音色の限界というものに行き当たる。特に高音が抜けない頭打ちの天井高何メートルという標識が見えるような世界観に限界を感じることと、バイオリンの本当の魅力を刃のぎらつくような灼熱の太陽ですべて表現することはとても難しいと感じた。低音の豊かさとくっきりしたエッジの音が好きだったから、ガルネリ系でずっと探し求めていたが、最終的にどちらかを選ぶ必要に迫られたときに、あっさりストラド系に舵を切った。低音がしっかりしていると心理的に落ち着くし明瞭な音の形は意識をはっきりさせてよいので、ガルネリの音がとりたてて悪いというわけではない。よい音だが、その音で多彩で繊細な音楽を表現するのは極めて難しいと感ずる。太マジックで4Bの鉛筆の表現はとても難しい。一方でガルネリ信者からするとストラドの音は半端な音に聞こえる面もあるのだが。

アマティ・ストラド系に決まったら、今度は音色がクリアかソフトかを選ぶ。ふつうにメジャーコンクール入賞で活躍するソリストがオーケストラバックでホール一杯にピアニッシモを響かせようとするとクリアなもの一択だろうが、これも表現したい世界観の違いになってくる。技術的に研ぎ澄まされた人たちだけがクリアなストラド系で表現できるのであって、成長進化の途上でそんなによい音で経験を積めるなら幸せだろう。しかしそれも若い間のことで、結局はその人が一生キンキンのハイテンションをとるか、微妙に幅のあるゆったり感をとるかという嗜好性の違いだ。世界で一番クリアなドルフィンは弾きこなすのが難しい。あれだけテンションが高いままでなにもかも演奏することを考えると今世の私ならお断りする。

世界中の音楽家やファンが三大ストラドを最高だとしているのは、耳元で聴く弾き手を含めた聴き手の脳にもっとも刺激が強いからだと思う。他のストラドはやや甘く響くので半端者の誹りを受けている。

最高峰を刺激の強さとクリアさに振り切った人類は果たして正しいのかどうかという基準に対する疑問があるわけではない。それはクリアそのものがよいに決まっている。

繊細に張り詰めた人生を送りたい人はそれなりに存在しているからそれはそれでよいと思うが地球上に三台しかない。高級外車のすばらしいマシンセッティングと高級ブランド品のハイクオリティとノンストレスな高級食材と使用人にとりまかれてよいワインとストラドを楽しみにするのが人間であるという定義を信奉している人たちが一定数存在している。

我々一般の庶民が日常的に楽しめる世界観かどうか疑問であるが、バイオリン弾きにとってバイオリンは毎日の日課というか一緒に息をする相棒であって贅沢品かどうかの問題とはまったく違う性質の実用道具でありいきものである。

贅沢を極めた権力者や資産家たちが好んだのは日用品の品質の高さ。茶碗や湯飲みなんかどうでもよいという人は誰もいない。余裕がなくて気が回らないことはあっても、少し落ち着いて考えるとあまりにも重要な感性である。

将軍家の武士が好んだのはたくさん殺せる刀よりゆったりとした心境で最小限度だけ確実に切れる刀。

暑さや疲労で少し頭がボーっとしてきた時、老化して認知機能が低下してきた時、年数がたって少し角がとれてきた時、クリアな音は奏者にとって極めて重要な助けになる。

クリアで純粋で一音一音が独立した感じの楽器を自らの磨いた音楽性で弾きこなすことができるのは、本当に一握りの世界的アーティストしかいない。そして彼らは有名で稼働率が高い消耗品としての演奏業者さんでもある。業者さんならクリア志向にならざるをえないのではなかろうかと思う一方で、スケジュールや難易度のゆったりとした趣味の次元をベースにした嗜みでありつつ本物志向で豊かな表現をしていこうとする道があってもよいのではなかろうかと考えが落ち着いた。

私は最前線の過密スケジュールでキンキンに冷えたスーパードライを流し込む緊迫感より冷えすぎていない昔のラガーのゆったりした味わいののんびりした会食のほうを好んだ。

最終的に決めた時に基準にして確認したことは、クラシック音楽で求められる範囲内の強い表現と繊細な表現が容易にできるか、高音域が美しくて抜ける感じがするか、毎日付き合いたいと感じるかどうか、音楽に集中しやすいか、心が明るく穏やかになるかというところだった。

音楽やバイオリンについて、自分の過去現在未来について、改めて真剣に深く考える機会になった。

私の最良の選択のために長年にわたってたくさんの楽器をご丁寧に紹介くださった関係者の方々に心から感謝している。