FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

絶望できる才能

十なん年生きていればみなさんが1度や2度は深い絶望を感じたことがある。
歳を重ねるとさらに絶望は増えていくことが多い。
バイオリン弾き志願者たちは、多分ハイフェッツの異次元の表現技術にほぼ必ず絶望を感じる。
努力して到達できるものには誰も絶望しない。
だからみんなオイストラフ系統をお手本にしたり目標にしたりする。
無難で出世コースに安泰なほうを志向する。
しかし、ハイフェッツにも不得手な曲はあり、バッハやブラームスチャイコフスキーなどはどう聴いても感動しない。
技術があってさぞかしバッハの名演ができそうで、まったくそうでもないのだ。
順風満帆のハイフェッツチャイコフスキーの絶望を理解しろといっても無理だ。
ユダヤトーンが欲まみれ自己顕示の塊で汚いという人たちもいる。
名手は実は得意な曲だけを弾いていたり、企画されていたりしていた人たち。
世界ではそういう演奏家に対する個別の理解があって演奏会を企画する気のきいた商業文化の中で、スターが育ったところもある。
そのかわり、本当に完璧に曲を掴んだ深い味わいと感動を覚えるような演奏でなければ成り立たない話だ。
中途半端な掴みの演奏はたとえ一曲でもやらないことが肝要だろう。
コンクールウケなんて論外な選曲だ。
半端にぴったりはまらない演奏を重ねて、名手の名演に絶望するのなら、それは至極まともなことであり、ノーマルだ。
能天気にのほほんと楽しく中途半端な演奏をやっつけ仕事でこなす演奏家なんて本当は不必要で無駄な文化破壊者である。
まず、絶望から出発できる幸せを深く噛みしめて、人類の文化遺産をひとつまたひとつ骨髄に染み込ませて再現する至福の喜びを弘めたい。
人間が生きていれば絶望は瞬間瞬間、次から次にひっきりなしだ。
その刹那の葛藤と毎日向き合い続け、光を求め続け、人類史を通達しながらじわりじわりとわき上がる力は絶え間なくわたしたちを満たす。
絶望できることこそ才能に間違いない。
絶望と向き合えないなら、まあそこまでの人だということになる。
順調、順風満帆な人生の浪費に満ち溢れたこの世界は、果てしなき虚無でもある。