FujiYama’s blog

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ロシア戦勝曲?本当に伝えたかったことは?

f:id:FujiYama:20220316033846j:plainロシアの作曲家は優秀で、クラシック音楽文化に重要な位置を占める。
チャイコフスキーも大序曲1812年を作曲。
ロシア正教の合唱が厳かに、曲の始めに用いられている。
チェロで代用することも多いが、それでも感動的な曲の入りである。
そして曲はナポレオン軍の進攻で急展開し、徐々に降雪の季節変化をあらわす印象的旋律が繰り返される。
フランス国歌も繰り返し出てくるが、いつしかロシア軍の反撃にロシア国歌がクライマックスへと移る。
これをオケで演奏したとき、戦争描写の残虐さが感じられず、むしろスラブ民族の気高さを感じる美しい防衛戦争の意義を感じた。
西側のナポレオン連合軍がむしろ侵略者だったというロシアの立場をメインにしているのでもなく、その年の戦争描写のひとつという感じ。
ヨーロッパ大戦のはしりで、第ゼロ次世界大戦だったのかも知れない。

最近、この大序曲1812年が日本では演奏中止になっている。プロオケもアマオケも高校吹奏楽部も中止。
プロコフィエフチャイコフスキーショスタコーヴィチなどの作品が変更なく演奏されている中で、この曲は敬遠されている。
チャイコフスキーはまたスラブ行進曲という名曲を遺しているが、そちらは取沙汰されていない。(因みにチャイコフスキーは民族系作曲家たちとは距離を置いていた)
ウクライナもロシアも同じスラブ系だから、共に歩もうとはならないのか?
つまり、1812年はロシア軍のフランス軍撃退にウクライナ人は助かったと同志感すら持つ間柄だった年として、そこから対話路線を打ち出せるのではないかと思う。
ウクライナとロシアがなぜ歩み寄れないのか、本当にゼレンスキーのイデオロギー洗脳こそ悪い。
かつてロシアの勝利はスラブ系民族の勝利だった。
そこが見えないウクライナ人たちは、内輪揉めか同志打ちしているという自覚がない。
時代が違うという面と、時代がいくら変わっても防衛戦争の大義大義である。
ロシアもNATOに対する防衛戦争であり、ウクライナは管理経済と専制に対する防衛戦争。
音楽の普遍性から解釈できるのは、どの民族も尊厳があるからいかなる理由があろうと侵略は悪い。
教会の鐘は民族の平和の象徴。
バイデンの立場から見た侵略者はプーチンで、プーチンから見た侵略者はアメリカ方である。
ロシアが鐘を鳴らせなくなるからとウクライナに交渉していた間、ウクライナはそれを無視した。
ウクライナは今や鐘を鳴らすどころではない。
この戦争はウクライナ人だけが大損する勝者のいない戦争だ。
相互の尊重のない対立の二国間が民族的に融和協調するのが平和の基本だ。
そういう意味で、わたしは大序曲1812年を今だからこそ演奏してほしい。
普遍的価値観を見失って、名曲の意義を曲げて解釈しているからこそ演奏中止の判断になるのではないだろうか?
これ程の平和希求の名曲も少ないと個人的には思っている。
戦争の大義より民族の尊厳ある生活がまず優先だ。
ゼレンスキーが降伏すれば、スラブ系民族は丸くおさまる。
専制地域を解放できるというアメリカの甘い見通しを信じて苦しむのもウクライナ人だ。
自由と民主主義だけが民族の尊厳を担保するという思い込みは、どこからくる幻想なのか?
専制には反対しつつも、おかしな世界秩序だ。
ユダヤ財閥の専制に対する批判がなさすぎる。
一方的すぎて違和感がある。