FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

難易度と到達度と習熟度をよく見定めて学習

f:id:FujiYama:20220103225009j:plain昔従姉妹のお姉さんが公文のファイルをごっそりプレゼントしてくれた。小学生でも難しい数式がたくさん解けるものだ。
従兄弟のお兄さんは、変速機付き自転車のお古をくれたが、まだ小学生だった私は、急な下り坂でブレーキワイヤーが切れて制御不能になり、靴底でブレーキをかけるもまったく減速しないままつきあたりの岩に激突して、自転車は前輪フレームが曲がり、それきりになった。
難易度の高いものを無理してやると、時には命懸け、大ケガ寸前。
みんな順番に段階を踏んで、足場を固めながら成長するのが安全だろう。
懸命に努力するタイプもいるが、のんびり着実なほうがなにかと安全。
せんだってバイオリンでバッハの協奏曲を弾いて、レッスンで先生に聴いていただくと、子供の発表会みたいだと言われた。
一様に単調に演奏する小学校の頃の記憶のままだったので、確かにその通りだと首肯して、先生の指示や名手の演奏をよくよく研究して、少しばかり深めで輪郭を出すように練習した。名手の透明度透明感まで感じ取って細かな発音にもこだわる演奏を目指したところ、まあなんとか人前でも大丈夫かなというところに到達。
いつでも一回リハーサル(あわせ)をやればすぐに弾けるようになる段階は習熟となる。
これは、実は学歴でいえば、幼稚園小学校がただ単調に楽譜をなぞる段階。中学校は人前でなんとか大丈夫な段階。高等教育はそれがいつでも余裕でどんな会場どんな編成でもすぐ合わせて本番という違いかなと思う。
こうして考えるとレッスンの内容は中高レベルであり、曲の難易度は小学校レベル、この曲の演奏は公開演奏到達レベルということになる。
よくある勘違いは、難しい曲をやれば到達度合いが高いというもので、中高レベルのレッスンでもどこかで賞でももらおうもんなら習熟したような気になる。昨年ご披露したくなったクライスラーの「愛の喜び」は到達度レベルかという勘違いで、長短三度音程の弾きわけをさらりとできるようになってから到達と言えるしご披露も叶うというものだった。多くの日本人の耳はごまかせるが専門家は聞き分ける。
高校生でも小学校レベルしかやらない人もいるし、中高レッスンでもプロを凌ぐ人もいる。
ほんとうは学歴にはあまり意味がなくて、特にソリストは学歴より内容のよい演奏経験のほうが大切だったりする。
難しい曲は華やかで特別な感じがするから、ついつい遠回りになりがちだ。
結局基礎技術の着実な積み上げにしか成長しない。
その気になって大学に行くのはそれなりに楽しいことだが、専門高校や大学で一からやり直しになる人もザラで、そういう多くの実例があるのを知っていると、進学や学歴というのはほぼ無意味。有意義に成長する人もいるが。
どの世界でも、正規の学歴コースとは異なる異色の達人というのがいて、実力というのは、学歴とほぼ無関係。経歴すら吹き飛ばすような人たちすらいるから参考になる。
社会人は小学校レベルの難易度の曲で中高レベルのレッスンを通して公開演奏レベルになるように練習ができれば一応充分に実用性という目標を達成できる。
いろんな楽しみかたと、いろんな社会貢献のしかたがあるのだが、遅々としてその進行の成果が見えない時期が長くなると、モチベーションを維持しづらい。
やはり音の好きなバイオリンを選んで正解だった。昨日も今日も音の綺麗さが単調さを超えさせると思った。
毎日ワンフレーズ、一音に感動することがどうやら継続の秘訣なようだ。
心底きれいだなと思える音で、基礎練習や好きな曲に取り組める日があるのは、ほんとうにありがたく幸せなことだ。
美しいものを美しいとありのままに感じられる素直な心は、そのま反対に嫌なものを強烈に嫌うことになる。
悪い不衛生なものは徹底的に嫌うのが正しいし、難易度、到達度、習熟度をありのままに見るように、見えるようにレッスンというのはほんとうに大切な機会。
学習は実用的な技術を獲るためのものだと意識しながら確実に進めたい。
そこそこの規定を満たすものは通過儀礼で目標にならない。
音楽の魅力や感動を常日頃から感じて表現したいし、それさえできればよいのではないかと15歳のころから思いが変わっていないのは、不思議としか言いようがない。

正月に買い物に行って、ビバルディの春が流れていた。
私は一年中365日毎日春であり、ほとんどいつもおめでたい人間だなと思い、ずいぶん世間的には浮いた感じのする生き物だなとも思った。
生まれ持ったものと戦おうとしない。
自分で自分と争うなんて無理なことは考えない。
DNAの否定は危険な自己否定、自殺行為なのだ。
ただの無作三身(はたらかさずつくろわずもとのまま)如来ではない。仏道にも教学研鑽という学習があった。
日蓮正宗で正しい本尊に手を合わせなければ、これほど心が穏やかではなかったし、ふつうの人ならもう諦めて首を吊っているのではなかろうかと思う御報恩の鮮烈な新年の元旦寺院初詣だった。