FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

馬鹿と刃物は使いよう(平成令和版)

お釈迦様はスリハンドク(周利槃特)という弟子をとって修行させた。
少し前の日本語で言えば知恵遅れ、今なら知的障害者に類するような、卑近な表現では馬鹿ということで、釈迦教団の中でも馬鹿にされていた。
このスリハンドクという弟子は、なにが凄いかと言えば、半端者を一切相手にしないで釈迦の言うことだけを聴いたことである。
釈迦の弟子がたくさん優秀な人たちで溢れかえっていても、その悟りはそれほどでもない。
余計な話に耳を貸さないのと同じで、半端な悟りや無駄な知識は有害だと知っていたのと同じだ。知識の量がまったく悟りと無関係だと理解していた最優秀の弟子の1人なのである。
これは弟子も凄いが、通じあった釈迦も凄い。
なにも仕事ができない弟子に小さな役目を与えて育成し、教団の一翼に取り立てることで、多くの弟子たちを啓蒙する。
弟子たちのレベルアップの核心部分がスリハンドクとの信頼関係によってなされた。
馬鹿は純粋で一途な美しさを持つ。

近現代では貧困は毛嫌いされる。
わたしも好きではない。
問題は貧民の危険視である。
犯罪予備軍を偏見で見るので、信頼関係は構築されない。
全科がある人にも偏見は強い。
ましてや精神障害は危険なイメージだけが一人歩きする。

馬鹿と刃物というのは、使うことが難しいものだから、使う側の技量が試されるという意味合いがある。
近現代では、スリハンドクお断り、入門不可。障害者お断り。クレカがない方はご購入ご契約いただけません。
面倒臭いし、厄介事は嫌だし、儲からないし、難しいから、できればどこかで静かに死んで欲しいというユダヤ商法とナチズム合理主義が蔓延している。
教職員や会社経営者らが知的障害者精神障害者或いは前科がある人たちを使えないのは、技量がなく指導力がないのだが、それは心がないからである。
ある程度知識や経験を積んだ大人なら、使いようがわからなければならない。
そしてそれは、社会の常識として教育し、雇用し、使う(活かす)もので、なにか国の推奨や法定雇用率の問題というのは、近現代の異常性そのものである。
その異常性を先導してきたのは、科学を学んだ官僚たちである。
専門的に対応するという社会的排除を合理性と吹聴して、隔離虐殺か自殺かという医療もどきを提示する。
どんな人でも人として成長していくし、育てる側が人としてすでに成長していれば使うのは可能なことだ。
この育てる側、年輩の成長が、戦後急速に痩せ衰えた。
特に70年代以降はテレビや会社学校で口を揃えて、馬鹿は無視して刃物を使わないと言い出した。

日本人のレベルを上げるか下げるかを決める知恵が忘却されている。
あたりまえにレベルが下がる。
誰もが使い方を覚えるため、変な偏見を持たないように、インクルーシブが重要だ。
特別支援はごく重篤な患者さんに限定しなければならない。
同級生が大便をもらした程度で勉強できないような児童はどの道まともな仕事はできない。
公立小学校でしょっちゅう便をもらす同級生がいて、会話も難しかったが、誰も迷惑に感じないし、誰も困らなかった。
なにができて、なにができないのか、周囲が認識しておけば、支障らしい支障はなかった。
障害児に対する虐待の多さは、そもそも官僚が排除していることが原因である。
軽度の障害児にいかに教育して社会に包摂していくかというポイントを、いかに多くの排除対象を選別して虐待するかという目標設定にすりかえているのは、エリート官僚たちである。

官僚たちには心も知恵もないということがよくわかる。
省庁の障害者雇用率を誤魔化していたと報道があった。
信心がないからだ。
馬鹿と刃物を使えない彼らもまた馬鹿であり危険なのである。