FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

まともなバイオリン演奏の条件 初級中級編  生活習慣病としてのアマチュア演奏(音程版)

f:id:FujiYama:20211008114449j:plainたかが10年されど、、、。
まともなバイオリン演奏はおおまかに演奏技術と楽器の相乗効果。
音程と弓使いが正しく、弦と楽器がほどよく手入れされていればまともな演奏になる。
逆に下手になる環境や条件にはシビアに対処する必要がある。

以下列挙するからぜひ明るい未来のために深刻に悩んでいただきたい。
1歌謡曲や演歌の音程や発声を聴く。脳を破壊するのはやめましょう。

2怒鳴られる。いじられる。ストレスを感じる対人関係からはすぐに逃げましょう。
家族の場合は別居を検討します。

3ピアノなしで音叉やAだけのチューナーのみで音程をチェックしていると、曖昧が習慣化。音大受験レベルの上級者になるまでは、全音計測できるチューナーやピアノが必要です。(諸説あり。A音叉だけの人もいる。)

4周囲の奏者?が微妙に狂っているのは、アマチュア団体、グループレッスンのほとんど。
今すぐやめて個人レッスンに代えましょう。
合奏団体にムリして(譲歩して)参加しては人生終了。

5半音階やらない。
そもそも音程に意識がない人。そもそもバイオリンに向いていない。

6漫然と音を出して音階練習すら成立していない。
滝に打たれるくらいがちょうど良いのでしょう。

7弦が古いと音がボケる。ほつれかかった弦はストレスになります。
しかし古いだけで音程はボンヤリふやけて聞こえます。
練習しているのか悪い酒にはまっているのかわかりません。

8楽器がならず音程や倍音を聞き取りづらい。
これは半端な古い楽器と安い楽器に多いのですが、難問題です。買い換えは大変なのでとりあえず黒檀フィッティングとスチール弦かピーターインフェルドを採用し、コーダプロディジー弓(安価で性能がよい)を採用するくらいしか対処のしようがありません。

9メトロノームをまったく使わないと発音がおかしくなります。
発音、発声があいまいだと、音楽にはなりません。
適切に活用します。
音程と弓使いは直接影響しています。

10和声和音を聴かない。重音音程を聴かない。
もはや弦楽器が不可能な人も実際います。
重音音階でじっくり音程感覚、音感を磨くのは必須です。
難しいのではなくて、やっていないだけ。

これらの失策によって弓使い(呼吸)も曖昧な緩慢ないい加減なものになる。学生オーケストラやアマチュアオーケストラのほとんどは音程がとれず、弓を使わない。早稲田慶応の学生の演奏ですら音程が微妙で聴いていると発狂しそう。一般的には上手い部類がかなり狂っている。認知機能障害の入り口になっている。
新しい弦と調整された楽器を活かす環境と練習をしていきたい。
この記事では主に音程音感を中心に書いた。
完全に環境条件を改善して10年位してもプロバイオリニストレベルにならないなら、聴覚異常や認知症などの疑いが濃厚だと考えてもよいのではないかと考えている。
ちなみに私は上記全条件をクリアしたのは最近なので、中年ながらも現状に不満たらたらで、これから10年レッスンを受け続けると、かなりまともな演奏になるはずである。
最近の録音を保管しておいて、またそのうち比較すると面白いかなと思っています。

f:id:FujiYama:20211008163241j:plain
余談(本題?上級編)として、仏教では娑婆世界を耳根得道(にこんとくどう)の国と説いている。
仏の境地の悟りを得るのに、耳から妙法蓮華経を聴いて本人がそれを採用すれば成仏するということだが、仏の悟りはだれでも得られる平等な幸福感で、現代では日蓮正宗の寺院で南無妙法蓮華経と唱えることでいとも簡単に至福の境地となる。
音楽では西洋音楽の美しい音律と和声で暖かくも美しい境地になるが、これも安価でだれでも得られる幸福感である。
どちらが優れていて、どちらが機能的で、どちらが安価かという現実的な違いを体験してみると、もう一歩クラシック音楽を深く楽しむことができるようになる。
時代や作曲家や曲ごとに音楽の感覚を言葉にすることはとても難しい。
仏教では妙音という。妙音菩薩というのもいる。妙法蓮華経に限定した妙音である。
枝葉と花や木の実について苦心惨憺しながら楽しむのはたいへんだから、根っこからアプローチする方法をおすすめする。
根を確認しながら手入れ剪定する植木職人と、一枝やひと花の細部ばかりいじりたおすだけの毎日のどちらが開放的で長く楽しめるかというのは愚問である。
楽曲の楽しみを想像しながら練習するのはみんな同じだが、作曲家の魂をぜんぶ集めてそのエッセンスの喜びを心から堪能しながら毎日を過ごすほうが、より充実感が深く大きい。
専門細分化や無限性を追求する現代の科学的知的欲求に偏った真理の探究もそれはそれで楽しいしひとつの悟りであるが、仏教上それはごく一部の浅い悟りとされており、真の高知能者であった釈迦はすでにそんなものを通り超えて、根本の悟りを解き明かして末法上行菩薩に南無妙法蓮華経の流布を予告予言していたのである。
宇宙なんてどこまで行ってもキリはないのに、行くこともできないのに探究する人類には、余剰資産がふんだんにあると言えるのかどうか?毎日不遇、不慮の死に嘆いている多くの人類を救わずに、まったく無関係な宇宙の果ての探索になんの意味があるのか?
音楽も無限の樹海旅行か夢遊病のような人生を予定していることが多い。
もし時間経費などの余剰資産があるのであれば、西洋のレベルの音楽を提供できるようにならなければ、他の人類生命の魂に対して申し訳ないと思う。健康で文化的というのは、その他者に対する慈愛の心をもっていることと、他者のために人生をささげることだと思う。
自己満足は他人のために何かすることで得るべきであり、私利私欲の無駄浪費にしかならない自己満足は忌避すべきものである。
楽器演奏技術の習得という単調な取り組みは、有名になることや収入を得ることだけを目的にはできない。
健康的な音楽、文化的な音楽、公益のある音楽、人間らしい音楽という世界中同じ目標をもった人類の音楽に参画しなければ有害無益なのである。そこには重大なポイントとして限定性がある。
あまりにどうでもよいなんでもありの音楽文化に不感症になっている日本人たちが、ほんとうのまともな趣味人や愛好家に全員なっていくように記事を書いて願うばかりだ。
しばらく一里塚ばかり追いかけなければならない段階ではあるが、根本の魂は宇宙と一体であり無限不滅の力を持っている。
ハンデを越えて続けていけるように数年前から毎日根源根本仏に祈念して、状況と事態が着実に改善しているところだ。
どうやら自分は途方もなく欲が大きくて、人類がみんな限定的な美しい生物になるように願って日蓮正宗西洋音楽に取り組み、自分だけがよくなるのではもったいないから、みさなんにもすすめている。
平等に人類全員が幸福になる基礎条件についてあけっぴろげに提示し、みなさんの自由意志にまかせるというスタンスである。