FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

情操教育の効果と中身と宗教心の相関(守備範囲と反作用)

f:id:FujiYama:20220212135801j:plainスズキメソードは情操教育の教育メソッドとして有名だ。

鈴木鎮一について毎日新聞の記者が本を書いていて一読したところ、その真の後継者は実は篠崎史紀NHK交響楽団第一コンサートマスターの父君である篠崎永育氏であるとなっているが、これはそれぞれ意見があり、論争をするのは時間の無駄になるので回避する。

なぜ、バイオリンの幼児教育が情操になるのか?

遊びたい気持ちをバイオリンの演奏に向けて楽しく修練に励んでいくという情操がひとつ。スパルタとは趣が違うことが重要だ。

右手の練習から取り掛かり、その習得方法として優れている点は、リズム、メトロノームや伴奏と合わせるという情操がもうひとつ。

左手の練習を兼ねて、指の一本一本を計算通りに指版に乗せるのは案外コツと集中力と右手との統合能力が必要になるのでこれも情操のうちである。

レッスンで練習中、演奏中に先生や親兄姉などから途中で止められたり、苦言を呈されたり、指摘指導が入ってくることが日常茶飯事で決して楽しいばかりでもないものを、腐らずに根気よくマメに取り組むことも情操である。ひとつひとつ覚える喜びがあれば乗り越えられる。

歌や楽器演奏でなにより大切な情操は、曲想をつかんで表現することである。きついときに軽快に、どん底の悲しい時に楽し気に、ウキウキした楽しいときに絶望的に演奏する技術こそ情操の代表ではないかと思う。気分屋とは真逆。

この曲想についてはやや高度で、曲想になりきる演じ切るというベクトルと曲想を出すための奏法歌唱法を練習して身に着けるというベクトルがあり、なおかつ演奏環境や人間関係との掛け合わせから生まれてくる不可思議な喜びの境地となると立派なものになっていく。

しかしこれらは実に幼児から少年少女にも立派にできることなのである。

知的好奇心は十分に満たされるが、道徳的意識や価値観を養うことについては、実はまったく意見が分かれる。キリスト教的世界観に対する意識や価値観はみんなそれぞれであり、神道国家にあってはまったく違うと差別化する派閥が多い。

しかし日本は仏教国であり、愛にかわる慈悲という概念があって、違うとは言っても通じるものはあるから心配しなくてもよい。

真言密教天台宗、浄土宗、日蓮宗等に観法の修行というものがある。禅宗の座禅も観法の一種と言えなくもない。ざっくり心を鎮めて仏や浄土を見つめ感じる修行だ。

情操という言葉からわかるのは、自分の情を操るという意味合いで、きついとか楽しいとか絶望的だとか悲壮感や寂寞感や俯瞰した感じ、理屈を理解した心に道に通達した境地や他人のための真心などその心の変幻自在を自由闊達に楽しむことができる悟りを求めて、つまり成仏を求めて修行をする僧侶によく似ている。

(イエズス会のイグナチオの霊操は神との一致のためなのでどこか似ていて紛らわしい)

どんなに難易度の高い曲でもサラりと演奏できるようになることがバイオリニストの条件であり、それをいつでも楽しめるのが芸術家である。

実際にそんな人は世界でもあまり多くないので、音大に行っても無駄なのだという意見が多い。

バイオリンというのは本当に難しい楽器なのである。

では、たいてい情操教育は成立しないという真実を目の当たりにすると人間はいったいどうしたらよいものかと考えて、無理のない範囲で楽しめば精神、情感は安定的に幸福であって特に問題ないというところを落としどころにすることになる。

仏教史仏説においてわれわれの心は天台法門で3000通りの種類にすでに分類済みであり、地獄の中の地獄の心だけは感じたくないので、仏の中の仏、日蓮の即身成仏の修行を採用することがもっとも賢明である。

曲を弾くときに気を付ける箇所はみんな同じであり、ミスを犯しやすい箇所は同じであり、会場の音響が一回一回異なるのも同じであり、お客さんとの空気や距離感で心理が変わるのもみんな同じようなものであるが、結局目指しているのは、いつでもどこでも同じように環境に左右されず完全に楽しみたいのである。

正統のキリスト教日蓮正宗というのは、国家権力も国王をも恐れない。

軍事政府や武士や皇室に対しても、処刑を想定しながらまったく媚びることなく法華経の正統性をズバズバと説くという魂のおおらかさが特徴的であり、その堅固さといい強さといい仏というものは宇宙神羅万象における魂の絶対的な安定である。

自然界で死を恐れないことが狂気である反面、絶対的な安定した心を養うことを最優先にすることで、情操教育は自然になされて道徳的意識や価値観を養うことも無理なくできてしまう。もちろん用心はするのだが、死ぬのが恐ろしいという心からあらゆる不安や動揺が起こり、自身の制御がきかなくなるのが現実一般の情操教育の逆効果であり、ほとんど無意味だが一応文化的であり知的であるからその存在が許されているにすぎない。

実際は情操教育とは名ばかり、知育なんて上っ面であり、みなさんが失敗ばかりして弱い人間を増殖させているだけだと批判非難の嵐、喧々囂々の無駄遣いと言わざるを得ない面があることはよく承知しておかなければならない。

われわれの魂、生命は地水火風空からできており、現代の科学はその補足的助言をしているにすぎない。

われわれの心をまずゆったりしっかり自分で見ることができるように、日蓮が観心の本尊を遺して人類に遺してある。キリストの禅的観法と教えは3000の心のうちの数百程度の範囲の心を解明したもので、ないよりはるかにましだがエクスタシーつまり悟りのレベルはそれほど高度なところまで到達しない。解脱のレベルがまったく違うのである。

二階建ての窓から、高層ビルから、国際線の機上から、宇宙船から、太陽系の外から、それぞれの地球の地を眺めてみるのは、まったく心境が違うように、日蓮正宗という究極の仏から見ると、スズキメソードというのは箱庭的にとても面白い子供向けの取り掛かりである。(大人の感受性では効果が低すぎる)

作曲家の数×作曲家の活動地域×作曲家の使用言語×12種類の音階×民族音階×演奏編成と編曲×会場規模×・・・と音楽には無限のバリエーションがあって、完全なる悟りや最高のエクスタシーを自然に浮かび上がらせる効果をもった楽しい中身が魅力的である。初歩の人のためとは言っても、無限の精神性を感じさせる利点があり、宇宙に存在する生命体としてのレベルをいくぶんか上げる効果があり、しかしあっという間に地に落ちるもろさがあることを銘記しておこう。

夢の中でごちそうを食べそこねる体験そのものを人生で味わうことになるが、日蓮正宗で修行すれば一瞬で魂が醍醐味で満腹になる。仏の悟りを理解し幸せな気分になるだけではなんにもならないし、空腹で悟っていったいなんの足しになるだろうか?努力して報酬を得ても幸福どころか生存すら危うい幸せである。

魂、生命、心、情という幸不幸の要を絶対的安定で満たす悦楽を負荷努力なしに可能なようにしたのが本仏であり、本仏は万人が成仏できるようにした日蓮ただ一人である。