FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

精霊(気)を感じて選ぼう

森林浴がてら山歩きなどしていると、信じられないような美しい気を感じることがある。さわやかな清々しいような気に出会うと幸せである。
反対に陰惨で薄気味の悪いような空間を突破しなければならないこともある。
街中を歩いていて、好印象な人とすれ違ったりなにか違和感を感じる人に行き合ったりすることもある。
われわれはそんな経験を毎日しながら生きているが、実に無頓着に生きている。
多少意識的に空気清浄器やアロマやお香なんか使う人たちはいるが、もちろん臭気だけの問題ではない。
日蓮正宗でお題目を唱えていると、たくさんの精霊たちの気を峻別するようになってくる。
もともと人間の凡人にもいくらか精霊を見分ける能力が備わっていて、現代人とはいえ、その違いは芸術作品なんかでみなさんが楽しんでいるとおりである。
しかし日本人は無意識に獣の気を優先しているから、よほど注意しなければ、あまり幸福だとはいえない幸福に甘んじることになる。3種の神器は陰惨な気をもっていまだにほぼすべての日本人を苦しめている。キリスト教では人間の尊厳を守ろうとする反面、人間の弱さにあまりにも従いすぎる。銃乱射事件などにまで至る。
しかし聖なる精霊たちは、確かにこの現世に存在している。宇宙という無限の世界に満ちているのだ。
聖なる精霊は凡人は特に意識的に求めなければ感じることは難しい。キリストや釈迦みたいに超能力とか霊能力とかがずば抜けていなければ、ただの黒魔道士の魔術に陥るのがオチである。
かといって毎日ストラディバリの音を生で聴くようなことは大抵の人には叶わない。
ローマ教皇がキリストの気を持っているかといえば、だれにも証明できない。天動説と地動説を間違えていたくらいだから、ちょっと違うだろう。
毎日日本アルプスの山々に登れる人も少ない。
美しいというだけでも、かえって不幸が浮き立ってしまうことがあるから難しい。
そのあたりまで考えて、私はもっとも強くて澄みわたった精霊を意識的に選ぶことにした。
そして邪さや害のある精霊たちとの付き合い方や対処方法を直感的に理解するようになってきたのではないかと感じている。
悪鬼外道の類いは精霊を使ってわれわれを操ることに長けている。テレビジョンに洗脳されている現代人が多く、自覚がない人が増えすぎた。
われわれ凡人が精霊に操られるのではなく、精霊を使いこなす側にならなければ、一見幸せなようで不幸です。
他ならぬ自分自身の気が油断すれば、または意識しなければ汚れてしまう。反対に汚れないようにと過敏になって弱くなることも避けなければ不幸な弱い美しさに苦しんで終わる。
自分の内面から完全なる精霊を涌出させる秘策が幸福のためには必要です。
もともとの日蓮正宗が伝えてきた精霊は大石寺に健在なので、日蓮正宗は堕落している僧侶だけではないということが体感できます。
驚きの発見だったが、日蓮が直接日興に託した根本の本尊、大御本尊がもっているあまりに強く澄みわたった気こそ人類が出会うべき驚異の仏という精霊だった。
揺るぎない人類最高の精霊と清浄の気に出会えた幸福はなにものにも代えがたい。
自然界のごく一場面とか、バイオリンのイタリアンオールドの一台一台とか、国立博物館の有名な日本刀とか、冬の満天の星空とか、コンサートホールのとある演奏とか、質の高い気に感動することは何度もあったが、それらの和ではなく積という感じである。われわれが見えないところをハッブル宇宙望遠鏡が克明に映し出して宇宙の途方もない全体像を想像したり、何気ない朝起きた時に感じる希望を思い出したり、それらをすべて足していっても、それだけでもすばらしいが、それらの積をいとも簡単に自分の心に造り出すことができたら、それは人類史の超絶的発見として評価されてもよいと思うのですが、まだこのことは広く知られていないのです。
限定的有限性の精霊と宇宙的無限性の精霊という対比をすると、それはもはや精霊の範疇を超えているのかも知れません。しかし仏は常にわれわれとともにある。一個一個の生命の内側に確かに仏という最高の精霊は存在しています。
もどかしい感じがするのですが、一般的にいうお題目なんてありふれたそれほどでもない感動です。
たくさんの宗教で多くの日本人はお題目に満足して、本当の感動には無縁です。
クラシック音楽の一流の演奏が霞む。ありふれた感動を否定はしません。私も楽しみます。
それらを遥かに超える強く澄みわたった精霊が、大石寺の大御本尊です。人間に生まれてきたらこの感動を体験すべきだというあらゆる感動を超越している深い感動が静かな佇まいのなかに満ち溢れています。
日蓮正宗の朝晩の勤行は義務ではありません。大御本尊と猊下との全宇宙との対面であり感動の無限の再現です。大石寺を知らない人たちは、いわゆるノルマに陥り、そこには本当の深い感動はなく、結局苦しみだけになります。地位、名声、お金、食べ物、旅行などで目先をごまかし続けて墓場にいたる裕福で不幸な人生に自覚もないまま、高額で小さな私利私欲に終わる人生になってしまいます。小さな精霊たちでは、いくら費やしても小さな幸福しか感じられていないのです。
大いなる大宇宙という精霊の根源たる仏を知らないということは、本当にもったいなく、せっかく人間に生まれてきたのに、なんて馬鹿な堂々巡りの人生に満足しているのだろうか?とエリートをふくむ地球上のみなさんを見ていて感じます。
立身出世や資産はいくばくか幸福になりますが、その幸福は浅はかな動物的幸福にすぎません。現代はそのことが非常にわかりにくくなっています。われわれの幸福観が生活コミュニティに与えられた固定観念にすぎない小さなものであることにはなかなか気が付けないようです。
資産家たちが結局地球上の問題に関わろうとする姿を見ていても、人間は根本的に環境の均衡、調和を求め、平和と幸福で連帯することを求めているのは解りますが、本当に小さな一歩にひたすら苦労するだけに終わります。よい精霊を選んでいるつもりでも、それが小さな精霊であれば、それだけの力しか発揮できません。大きな幸福を求めるなら、大いなる精霊を探し求めて選んでいかなければ、先祖から受け継いだこの命と人生がとてももったいないことになっています。
幸福観というのは論より証拠です。主観の範疇であることは確かですが、まったく知らなければ選びようがありません。
拙い文章ですが、ご紹介がてら。