FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

人ありきかカネありきか?「路上のルール」

f:id:FujiYama:20211222162355j:plainこのならび。
品川・江東・杉並・世田谷・練馬・足立・板橋・多摩・葛飾・八王子。(10種類)
そう。クルマのナンバープレートの地名。
次に埼玉、千葉、神奈川のナンバープレート。
「大宮」「所沢」「熊谷」「春日部」「川越」「越谷」「川口」(7)
『千葉・習志野袖ヶ浦・野田』の4種類2006年10月から『成田・柏』2020年度から『船橋・市川・市原・松戸』(10)
横浜・湘南・相模・川崎(4)
だいたい大まかに見かけるプレートはこんなところで、これ以外は都心、副都心では珍しい。
登録台数とは無関係に区割しているそう。
なぜだか私には自転車で走っていて、ヒヤリとする追い越し、すり抜けをする車両のナンバープレートを無意識に確認するクセがある。
クロスで2年くらい車道を走るようになってから、半分の確率で埼玉7プレート、半分の確率で東京の練馬足立板橋品川、あとはごくわずかで記憶に残らない。東京の4種類のなかで一番多いのが足立だから、地名そのもの別だと足立ナンバーが圧倒的に危険な運転をしている人が多い。
こういう確率とか印象とかは、統計とは違って実態とか体感的なものなので、足立ナンバーだから全員危険とかいう話とは違う。
しかし、しかし、しかし、、、。
おおまかに31分の11、かつ足立に限れば31分の1だけで3割程度というのはなかなかの偏りだと思う。
そもそも地方ごとに危ないナンバーという口コミがあって、関東地方も例外ではないし、関東特有の傾向がある。
ある田舎で生活していたころ、とても不快だったのは、横断歩道を青で渡っている歩行者を急かす車両がメジャーだったことである。都内では珍しく、都心ではあり得ない。
危険なナンバーと言われる地域では、人間は邪魔なもので、車両第一である。
自転車専用通行帯をいくらか設置している東京はまだましなほうで、それは先進国の体裁でもあり、安全第一でもある。
車両と自転車が並走している国道や都道府県道を比較してみると、地方がいかに自転車を軽視しているかよくわかる。危なくて仕方がない。
横断歩道の歩行者も危険な状態に置かれている。
財政富裕の東京ですら路上の白線が消えたり消えかかったりしている。
何十年も前から国が産業や車両を第一に優先しすぎているという一定の危機感を持っているが、やはりそれがカネありきになった弊害だろう。
大金を手にするとみんな平和志向になって、極端に事故を避けるから、東京の安全対策はある程度実現しているのだが、その平和な人間の社会生活は、安心して歩行でき、安心して自転車で移動できることと重複している。
地方の心貧しい非常識を都内にたくさん持ち込むと、都民は安心して生活しづらい。
ちなみに東京の4種類のうち練馬足立板橋は、歴史的に埼玉県だったエリア。
おそらく常識や規範やマナーがまったく違う文化であり、対外排除のナショナリズムが強い人たちも多いので、浦和レッズのファンが暴走したりするのだろう。日本イコール神道の狂信者がかなりの比重である。
根の深い難しい問題だが、そういう傾向がある。
日常的に首都と地方の関係を凝縮して目の当たりにしている。
10センチあるかどうかという追い越しに会うたびに、またあのナンバープレートだと高確率で的中するのは、あまり衛生上よいことではない。
国は国民教育や政策を根本的に間違えている。
なぜ日蓮正宗の人たちが神道を拝まないかという理由もそこにあり、たんなる道理である。
人格否定、事故や怪我や死亡なんて、神道が牽引しているのだから。
死神みたいな主犯格は都心の一等地で優雅に暮らしている。
みなさんが心のゆとりを持つために、私は日蓮正宗の信心をおすすめしている。
弱者をいびりあげ、貧乏人をしびれさせ、まじめな人をこき使い、道も歩けない国造りなんて、馬鹿げていると思う。
まず地方のインフラや教育自治体予算を行き渡らせる常識的感性が官僚と政治家には求められている。
消費税で下層を追い詰めたり、外国人労働者で日本人の処遇をさげたり、確信犯の人たちと馴れ合うこと、協調することは私には至難である。
国民はただお上にへつらうことに慣れすぎて、民主的修正作業がなされないままに、日本人の人命や人格が軽んじられているから、やはり小手先の政治改革より根本的な思想哲学の変革が必要だ。
あまり日本人たちは、自分たちの生命を尊重する気がなくて、そんな必要性を感じていないようにも見える。
殺すなら殺してくださいお役人さまとか、、、。憲法違反とか特別公務員刑法違反のような状態に異議を唱えないへんな人たち。
人間の基準ではどちらかといえば、変態チックなのか変態そのものなのか、自分さえひどい目に逢わなければどうでもよいのか?
少し考えてみる価値のあるところだ。
以前記事に言及したが、天照はこの国にはいないという日蓮の主張・卓見をよくよく考えてみるべきだ。