FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

私利私欲と個人の幸福追求

ユダヤ神道は私利私欲であり、日蓮・キリストは個人の幸福追求を認める。
混合型や派生型になると私利私欲に流れて表面上の個人の幸福追求となる。
強欲にカネに条件反射するユダヤ神道に染まると回復は難しい。
全体観、公益を忘却してカネに走る国際金融資本の傘下にある企業の社畜にとって、日蓮もキリストも意味不明である。
仏教も神道の配下としての上納金吸い上げ目的の国税庁出先みたいなもので、よほどゆとりがなければ個人の幸福追求より出し抜きと蹴落としに終始する。
そのゆとりこそ日蓮正宗の題目なのだが、残念なことに僧侶が収益至上経営に走っているので、日蓮正宗一般信徒では個人の幸福追求は困難だ。
資産収入があれども個人の幸福追求はなかなか実現しない。
動物福祉の次元ですら日本人には困難だ。
個人のと言えば私利私欲とは限らず、全体観、公益を踏まえた個人の幸福追求は当たり前であるけれど、たいていの日本人にはそれすらわからない。
社会的地位や旧家の名声で世間的名誉として公益を使うにとどまる。
土台日本人には個人の幸福追求は難しいはずである。
キリストの知恵、日蓮の指南を素直にできる希少な日本人がかろうじてその試みはできる。
そしてユダヤ神道に流されて不幸になると決まっている。
日本人たちは幸福の条件を精一杯整えたというのに、公益を踏まえたはずなのに、それは実体や実感を伴わない表面的な動物福祉の次元に終わる。
神の愛は日本ではタブー視されがちだ。
私利私欲の妨げになる悪とされる。
仏の慈悲はユダヤ神道に奉仕させるために転用される。
宗教は小うるさいから、一般人の多くが私利私欲を開き直る。
自由と民主主義は虐殺の直道となる。
科学より今期利益であり、司法判断から科学性や公益が抜ける判例も多い。
国中が私利私欲では、個人の幸福追求はうまくいかない。
あたりまえのことができない。
私利私欲は敵視と攻撃の人間関係である。
今ほど人間らしさが求められている時代はない。
あさはかな日本人が人間になることができればよいが、見事に可能性がない。
そもそもほとんどの日本人は人間ではないことを自覚していない。
たいてい人間の条件を知らない。