もう現代では、強くて刺激的な香水が主流だから、衣類に香をたける道具をそろえている人もまずお好きな富裕層くらいしかいるまい。
庶民の中では、多少興味のある人や関心のある人たちが、煙をくゆらせる。
今はやらないが葉巻というのも、吸うというよりくゆらせるので少し距離が近い。
そういう私も安い香水でずいぶん学生生活をごまかした記憶があり、それというのも仏壇まわりはすべて祖母まかせだったからだと思う。
両親も浄土真宗の寺まかせから新興宗教の安い線香に移っただけだった。
それはただの線香である。
どれも同じ線香だというのに近いし、たいして変わりがあるわけでもない。
それで、最初は100均の線香を使ってみた。
ひどい煙ばかりの線香で、最近知ったのだが、台湾の線香がそういう傾向らしい。
安い香料をまぜただけの煙たいものは野外の墓参用にしか使えないような代物である。
ある時、100万都市の地場百貨店の京都物産展に出向く。
本来、一族が好んで足を運んでいたので、所得はなくても抵抗がない。
ずっと長く取り扱っているあそこの七味がおいしい。
そこで1000円余りの京にしきとやらを手にする。
ランク的には下から二番目で決して高級品ではないが、自宅に持ち帰ってたいてみると、なんとまあ柔らかい調香でありご満悦。
それに先立ってもともとやる気のしない新興宗教を辞めていたことが印象的な自己の変化であった。
よほど金銭に困っていなければ、その時は松栄堂さんの製品だったが、まともな線香をたこうと決めたものである。
新興宗教でひろく使用されている永遠とかそのあたりの線香は、とても香料感が強く、やすっぽい香りがするので、もともと嫌いだった。
そして上京してから、今度は沈香の線香に出会う。
40頃にようやく香木入りを自宅でたいた。
浄土宗の影響か鳩居堂の香木入り線香もたいてみて、それほど違和感はなかったものだ。白檀もそれほど悪いとは思わないが安っぽすぎる白檀入りは香料が強い。
ただ法然上人の流れは、商売ががめついのかなんなのか、鳩居堂はとても高額な商品が多い。
そうしてまた沈香のお線香がいいなと東京駅へ。
京と鎌倉の因縁と宮さんのお役目の流れは不快ではない。
だいたい自分が好きな香りが定まってきつつある。
伽羅のスパイシーな香りはそれほど強くないほうがよく、沈香の味わいはほどほどに感じたい。複雑な香りのハーモニーを感じるような調合ですっきりまとめ上げたものがよい。
こういう自分の嗜好を、香十の店員さんは予め知っていたかのように、これがなんていって薦めてくれたのが不思議である。
もちろん上を見ればキリがないので、伽羅メインにいくらでもよいものはあるのだが、あまりべらぼうに高額だとなんだか気が滅入って不衛生である。
少し頑張れば司薫沈香や寿王の香りはなかなかのもので、たく前からすでに風格が違う。
現実的には芝山か若宮か永寿かというところで、どれもすばらしい。
実用を考えると寿王と芝山とか、司薫沈香と若宮とか、伽羅と永寿とか、特別用と普段用に買い置いて使い分けるのがベストだなと感じた。
しかし、わたしには別に焼香用の香木の買い置きがあり、これは最高級のものと未開封のものがまだたっぷり残っているので、ひとつだけ今回は買い求めることにした。
実際に、毎日使う線香をどの銘柄にするのか決めてしまうのがよいのだが、まだ決まらない。まだ定まってないものですからと言うと、店員さんはいえいえと言う絶妙な会話の質を考えると、とりあえずお店を間違えているわけではないらしい。
日本の製造業があぶないと日本人は安心して生活できなくなると吹聴される昨今で、ちょうどブリヂストンが社員を大勢解雇すると発表して株が下がっているのを八重洲口の電光掲示板で眺めながら、日本のお線香文化においてはまだまだ高品質高品格な豊かな選択肢でお出迎えを頂いて、とても豊かな心になったような気がする。
宗教の本尊を選び、唱題の波動を選ぶということは、心の波動を選ぶことであり、豊かさの波動を自ら感じ取ってすすんで選んでいこうとする人間の自然な動きだと思う。
100均の線香が悪いのではなく、100均でも構わないと思わせる波動、安い香料の線香でなにも感じなくなる波動、その心を見つめる時を持つことができるかどうか?
その違いが本尊の違いでありお題目の響きの違いである。
陰鬱さや落ち込みうちひしがれるだけの仏などいらないし、無理して明るく振る舞おうとする必要がある神もいらない。
ただし、間に合わせや家計の都合にあわせて無理のない範囲で選ぶことが大切になる。
やや立派なことを言えば、謙虚に落ち着いた朗らかで慮りに満ちた豊かな人間形成は、ほんものの仏教で修行していく中で薄皮をはぐように少しずつなされていくような気がする。
ああ、そういえば今は刺激的な香水の時代になっていたんだった。