FujiYama’s blog

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快感や快楽と音楽と熟練度 罪悪感や背徳感はどこでどう感じるか

f:id:FujiYama:20211026233506j:plain楽器で音をだし、発声する快感や快楽は、どんな音楽にもある。
かといって音痴とか騒音という他人の迷惑になるものもある。
最低限のマナーとして音程やリズムなどのある程度形式の整ったものを志向するクラシック音楽による快楽や快感のほうが認容されやすい。
好き勝手なミュージシャンは敬遠されがちだ。
もうひとつが楽曲や歌詞による快楽快感の違いが大きい。
宗教曲や人道的な曲や練習曲というのは、とても公益性や教育的なものを持っている心地よさであり、快楽快感というより法悦である。
人間の心模様を曲にする場合、私利私欲だけでは乱交パーティーにすぎず、そんな快楽はとんでもない悪事で社会の風紀を乱すとされがちであり、どちらかと言えばまじめな人間の心模様を丁寧かつ大胆に表現するクラシック音楽の快感は認められやすい。
筒井康隆という俳優で作家の著述に人間の快感の最高峰が殺人だというのを読んだことがあり、それは一理あるのだが、音楽の種別嗜好による殺人の正当度合いが相当大きいのではないか?擦弦楽器(バイオリンビオラチェロ)でそこに引っ掛かるのは音そのものの快感によるものかもしれない。
人類的には、重罪人を死刑にし、テロの首謀者を爆撃し、その正当な殺しの心地よさを全否定できるだけの人たちは少数派である。
究極は重罪やテロそのものの発想も必要性もない世界になることが一番だが、どう考えても現実的ではない。
さりとて死刑も空爆も正当だからといって、罪のない数十億人の民は不幸でも当たり前にされている。自由だから自殺やむなしとかいう社会制度的な矛盾が生じているのだ。
果ては奴隷を志願している民がいるという商業政治の構成員のエリートたち。
彼らがクラシック音楽を一応尊重している態度でありながら、その心は一体どうなっているのか疑問を感じる。
人類という生き物は、永遠の安息を求め、永遠の死を恐れ、現世に平和と音楽を求めながら、大抵は永遠の地獄へと続くしかない人生となる。
快感や快楽の質を高めて、その死後の魂を保証しようとするのが自然の成りゆきである。

人間が生きている以上快楽快感を全否定せずに啓蒙して向上心を持たせることが地域社会の平和と安寧につながっていく。
志に目覚めさせ、社会の一員として自覚を持たせ、高い次元の満足を志向させることが、われわれ大人の役割であり、使命だ。
だからこそ無駄な締め付けばかりの悪徳政治、我慢と努力だけの病んだ教育は徹底的に追及し追放していかなければならない。
社会の敵は反社会勢力だけではないことに気が付かなければならないと思う。

楽器が快感や快楽で贅沢なのではない。
楽器に習熟していくなかで、また志を高めていくなかで、より高い次元の贅沢に目覚めていくことが音楽の快感や快楽の正しい意味だと思う。