30年以上昔、中学生だったころに、理由は思い出せないのだが、カラヤン指揮ベルリンフィルのCDをお店で買って聴いていた。
多分映画アマデウスの影響はあると思う。
その後モーツァルトの手紙を読んだりしてモーツァルトの音楽が好きになるというありきたりなファンである。
いくつかのレクイエムは有名な曲だが、聴き込んだのはモーツァルトの作品だけで、あとはなぜか聞き流すだけで、今後の楽しみにはなる。
かなりの人気作品らしい。
音楽は癒しだなと痛感する。
キリスト教の歌詞、ミサの言葉がメインだから、死生観や世界観が全然違うのにもかかわらず響いてくるものは、善悪と死を突き詰める恐怖感の共有であろう。
死への恐怖がまったくないという人はまずいないし、誰しも自らの行為が絶対の正義であるとは限らず、そこから慈悲を請い願う誰もが平凡な1人の民。
仏教の前提になる輪廻を想定しなければ、死はシンプルに終止符であり、恐怖である。
死後の世界が見えないので、地獄と天国に二分するのがシンプルで分かりやすい。
東洋と仏教からは考えられない歌詞だが、とにかく分かりやすい。
なにが魅力なのかといえば、やはり癒しと安らぎである。
時の流れが容赦なくわれわれ生命を押し流していく中で、休息と安心(安息)は幸福の絶対条件だ。
洋の東西と関係なく安息が必要である。
寸暇を惜しんで努力するとか、止暇断眠とか立派な人たちもいないわけではないが、ごく一部。
そこまで40年以上かけて思考を整理したうえで、今日2021年10月22日にはじめての演奏鑑賞となった。
東京交響楽団の音楽監督は現在ジョナサンノット氏で実力ある中堅指揮者であり、リゲティのルクスエテルナ(永遠の光)を挿入してくるという趣向でどのような表現になるのかとても楽しみにしていた。
ありきたりに生演奏というのは、録音を鑑賞するのとはまったく別の音空間である。
録音ではどちらかと言えば管弦楽の響きが強調されて聞こえてくるのだが、実際は合唱の響きが主体であり、圧倒的である。
そもそもオーケストラは歌劇や人間の歌のためにあるのだという前提の常識を改めて思い知らされた。
音がぎっちり詰まった多層のケーキになっているようなすばらしい感覚はコンサートホールならではである。
歌詞は呪われた者たちと安息と主の慈しみを期待している哀れな私という軸が中心になって、宗教的善悪の矛盾と葛藤が存在していることが、現実の人生の中でたびたびあることを前提にしている。素直に教会でひざまずけない人たちは、本人の意思にかかわらず存在しており、その人たちの悲惨さを目の当たりにすることが多かったのは今と同じなのである。
美しい歌声の旋律の響きを多用して、天上の神に救いを求める曲でもあり、モーツアルトもリゲティも永遠の光に唯一の救いを求める。
リゲティのルクスエテルナの表現は、六道の生命が死後宇宙空間をさまよいながら生前の思いをつぶやき続けている合唱に私には聞こえた。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の心をもった魂がそれぞれ思い思いに思いを波動として発信している感じ。死人は声を発することはできないが、苦しいとかもっと欲しいとか思い通りで満足だとか、いろいろな思いを発信している。
面白いのはみんなバラバラで意図せずに共鳴を生んで、意図しない不協和を生んで、それがそのまま曲になっている。
もちろん永遠の光を表すパートが出てくるのだが、仏教から見るとそれは、永遠の光を指し示す役割の天の立ち位置であり、永遠の光そのものではない。
いつかアメリカの著名人が女性差別問題について天上(天井)にガラスがあると表現したことがあるが、ちょうどあの感じであろう。
キリスト教、モーツアルトはフリーメイソンで有名だが、宗教的な違いはあれども、どうやら一般仏教と同じ葛藤と悩みを抱えていたのだなと気が付く。親類縁者や宗教的なつながりでうまくやっていける人たちは、特段の課題は乗り越えていくことができるから、その善悪は死後の神の裁きに持ち越されるし、成仏したとかしないとかいうのは仏の判定に持ち越される。
しかしあきらかに共同体から排除される人たち、宗教行事に参加できない人たちが多数うごめいている現実社会に思いをはせている、わかりやすく言えば心配しているのは、同じなのである。
世の中には他人の不幸や死を自己責任だというだけの人もいるが、不幸ごとは少ないに越したことはない。
呪われた者たちは、現代にも数十億人単位で存在している。
ちょうど40年ほどまえに、私は幸いルクスエテルナを心の中に認めることができた。
鮮烈な光がさっと胸の中に差し込み、それまでの人生とわが魂が暗い地獄の中にあったのだと知った。
なにもかもに恵まれた幼少期で、他人からは自分が地獄の中の地獄の心にはまったく見えなかった。
幼少期の体験として記憶しているが、たびたび参列したキリスト教会のミサも法事の浄土真宗の僧侶の読経も毎朝の神棚への給仕も、自分の心が地獄であることを認識できないままのものであった。
生き物は暗闇になれると光を求めなくなる。
日本人というのも同じである。
実際の日蓮正宗の法華講もまた呪われた共同体であるが、唯一ルクスエテルナを自分の道具として使用することができるようになる方法を教えている。(表現が難しいところである)
日蓮正宗に関してさまざまな批判や指摘があることを考えると、法華講を広く覆っている呪いに関して別に詳細と全体像を記事にしなければならない。なぜ日本人はルクスエテルナを悪だと信じているのかを明かすことも重要である。
いずれにしても、世界中のだれしもがルクスエテルナを求めていることは間違いない。
しかしモーツアルトの作品やリゲティその他の作品を聴いてみると、おぼろ月くらいの感覚でしかその光は掴めていない。
なにも遮るもののない鮮烈な光にわが魂が満たされる体験には程遠く、人類が求めるのとは別のLEDライトに誤誘導される哀れな人間の宿命が如実にわかるようになってきて、人間として仏教の神髄を悟ることができたこの40年間の人生がどれほど幸せだったかとしみじみと日蓮大聖人に感謝をするのである。
どんなにつらいことが重なっても心には光が満ち溢れていたし、光がゆがんだ時にもその光源を認識できたし、天上の音楽をはるか下界の人間のうごめきとして俯瞰できる境地を得ることができて、それはいわゆる思い上がりとは違う光を発する側の呪われた者たちに対する慈しみそのものであり、安息そのものの魂なのである。
幸福を求めない人間などいないし、他人の不幸のとばっちりを受けたくない人間もいないし、死後の魂を想像しない人間は古来いない。
ナイロン弦と現代楽器で演奏されるモーツアルト、いやたとえガット弦であっても現代仕様のバイオリンで演奏されるクラシック音楽は、カラヤンの速度よりはるかに速い演奏である。
カラヤンの演奏当時は、カラヤンが速めの速度だと言われていたのだから、時代とともに加速度的にはやいテンポで演奏されるようになってきている。カールベームだと睡魔が襲ってくる人もいるだろう。
もはや私のようにゆったり構えた人間には、安息どころではない速度。
事件、事故、自殺、変死、薬害、労災、発狂、離婚、馘首、薬物、環境、資源とあらゆる問題をごまかし続けて押し切っていく人類の姿がそこには浮かび上がってくる。
昔は問題の規模が小さく、不幸ごとが個人単位や家族単位をベースにときおり疫病や飢餓がある程度だったが、もう滅茶苦茶な大規模の問題群が押し寄せてきている現代で、クラシック音楽がこれほどハイテンポになってくると、問題と向き合ったり考えたりする時間を認めないようになりはしないかと危惧する。
詐欺罪の時効が7年で伝票の保管義務は一年というのと同じで、とりあえず目先をごまかしたらそれで罪を逃れることができる。そんな人間の傲慢さを広く人類でやらかして各地で個々人を孤立させて自滅させていくという新時代のホロコーストを正当化すべく、世界中の演奏家、指揮者たちがハイテンポで演奏しているのではないかという勘ぐりまでしてしまう。
早くて確実な仕事ができるという場合は、だいたい建設的な仕事に限定されるもので、そんなもの大半の仕事はどうなるか統計と分析が示している。
人類は今ホロコーストを優先している。
誰もが急かされて正常な判断よりも目先の損得勘定だけに意識を向けられている。
救いのない人類の姿を俯瞰している仏の心はとてつもない痛みを同時に感じている。
慈悲という魂は、無限の光源であると同時に、無限の苦しみを感じる魂である。
聖職者たちが不正や虐待に走るのは、中途半端な人間の定かではない決意で引き受けられない苦しみを引き受ける無謀な挑戦をしたからである。
真実、神は不完全であり、僧侶は不正と邪悪に毒され、唯一、日蓮正宗の大御本尊だけがあらゆる苦しみも喜びもありのまま受け止めるルクスエテルナなのである。
死後、さまざまな光源にふらふらさまよい続ける魂たちに、唯一絶対無二の真実の祈りを送り続ける。
そして、生前のできるだけ早い時期にルクスエテルナを使えるようになる人間を一人でも増やしたい。