聖と俗、凡と聖の対比はわれわれが常に意識しなければ損をするコントラスト。
釈迦・キリスト・日蓮という聖人は今はもう存在していないが、彼らに学ぼうとし倣おうとする人々は少ないながらも連綿と続いている。たとえば少し前の世代にはマザーテレサに影響を受けたという人は多かった。
人間が人間として正義に生き人類の一員として何か貢献しようとするのは自然な感情であって、本来は宗教の教義や権威からの義務でやるものであるとは限らない。
しかし、いかなる人間を目指し、なにを正義と定義し、人類の多様な差異を乗り越えて正しく物事を見ることができているかどうか、貢献の手段や程度の多様性も効果があるのかマイナスの逆効果なのかすら判断が難しい。
そういうことを確信も確認もできないままに、寄付やボランティアなどに邁進することはさらに難しい。
一般にみなさんはネガティブキャンペーンもあるから、一切は無駄なのだと洗脳されたり無力感に覆われたりすることも多い。
つまりいかに確信をもって、目標、目的、意義、手段、程度、範囲を確認、検算しながら社会に奉仕するかというところを補強する必要がある。
聖書の専門家ではないから、私は聖書から何を読み取るかが、ずばり愛と聖霊である。
専門家は現場状況・登場人物・政治状況やイエスの教え、発言の趣旨を伝える。
しかし、愛と聖霊を理解体得するうえでは、イエスが愛を伝えるために言動をとったことは確かであるから、その言動から感じ取るものがあるかどうか、その言動が無駄か人間性が理解できないかなどという迷いの方向性は私にはまったくない。神の愛と聖霊というのは一般にはわかりにくいが、聖書の中に、ビバルディの調和と霊感つまり教会と密接な音楽とかイグナチオの霊操とか、ミサそのもので感じるものとの一致を見出すことで理解することができる。
一般の雇用主や取引先や誰それに気を遣って正しい聖書の解釈を曲げることがあってはならないから、客観的論理的実際的に正しい聖書の解釈を専門的に伝える立場が必要であり、それが聖職者の一面だ。当然に一般にはそういう解釈がほぼ不可能だという意味だ。
それは御書(日蓮大聖人御書全集)についても日蓮正宗についても大差ない。慈悲と境地を感じ取る。
キリストと日蓮という並びに異論がある人が多いから、整理のためにも一応説明が必要だ。
カトリックはマリア信仰と三位一体を特徴的な根本教理に持って司祭は男性限定、日蓮正宗の出家は男性限定だが明治時代から妻帯解禁になり三大秘宝を根本教義と修行法とする。マリアとは性格が異なるが釈迦と日蓮が師弟子の立場を混然一体とした関係性とする。それぞれマリア像を拝んではならないし、釈迦像を拝んではならないとされている。
カトリックは12使徒代表の後継者をローマ法王として教義を都度解釈し、日蓮正宗は6老僧代表の日興の後継者を法主として教義を都度解釈する。
日蓮は43歳で「小松原の法難」で地頭の武士集団に強襲され負傷、49歳で「竜の口の法難」で斬首刑になり、すぐに佐渡流罪で実質死刑となった。
キリストが30歳あまりで十字架にかけられたのも同じ死刑である。
両聖人ともに死刑を預言して想定して説法した。
キリストは旧約聖書、日蓮は釈迦の経典を引用して想定し、死罪その他の弾圧を預言してその通りになった。
一般の虐待カトリック批判やカルト日蓮正宗批判などとは、まったく別のイエスと日蓮の姿・言動は普遍的な真理にもとづいている。
三位一体で、神とイエスと聖霊をあらわし、三大秘宝で仏と日蓮と題目をあらわす。
神は愛であり、仏は慈悲である。
題目は仏(南無妙法蓮華経如来・法本尊)と日蓮(本仏・人本尊)の間から人類に遺された。
キリスト教カトリックが法王司教司祭のもとで聖霊(洗礼堅信)を受け、各人がどこでも祈りで聖霊を維持するのと、日蓮正宗が法主住職のもとで題目(授戒)を受け、各人がどこでも唱題で題目(仏の魂)を維持するのも酷似している。
少し違う興味深いところは、カトリックはマリア信仰で女性の地位が比較的高いものの司祭にはなれないこと、日蓮正宗では女性信徒の地位がそれほど高くないが日蓮の評価は聖書と同様女性の役割の重要性であり、出家そのものがあまりにも少ないことで、しかしながら近年日蓮正宗僧侶(日本の仏教僧)が妻帯するようになって自然と住職の妻の発言力はかなり出てきていることである。控えめに内助の功を心がけるタイプと表で積極的に発言するタイプは夫婦間関係の影響も手伝ってあるように見えるが、女性の役割はあくまで二番手という共通した教義の骨格は共通している。
面白いのは、司祭だけが男性限定と残してあるカトリックと聖職者の妻としてだけ認める日蓮正宗の違いである。
カトリックの司祭に女性を許可するとどうなるかという予想にいくらか明治以降の日本仏教界のことは参考にしてもよいと思う。以前少し記事にした記憶がある。
その司祭のみ男性限定、僧侶のすべては原則男性というズレが聖人の言動を学び実践するうえでとても参考になる。
聖を24時間実践することは不可能にしか思えない。
しかし、大石寺を参詣、日蓮正宗の血脈本尊に唱題するならば、その不可能性が逆転して聖が永続する余地があることを悟る。
テレビやマスコミや悪い学者に流される程度の愛も慈悲もない人間であれば、それは会得できない境地だが、究極はキリストも日蓮も聖霊を呼吸していた。
それは神であれ仏であれ最も澄み渡った空気・境地を常に保つことが聖だと我々は知ることが重要である。
喜怒哀楽の性質を聖に転化していく一定の修行を経るならば、誰でも常時聖となる。
霊操と観心の修行は有用である。
聖職者が実践して説法する内容と在家一般が実践する内容の共通項を真剣に研究することが参考になる。
ボランティアは定義と法律上の取扱いの違いを知って、東西世界の違いから報酬や経費がまかなわれるかどうかによっては、無駄とも有用ともいえる。
しかし、それよりも聖を実生活の中で恒常化させる流れを作るためのボランティア活動である。
つまり誰かの役に立つとか弱者のためとかいう実際的な目的は我々の心境を向上させて心境が天国と仏という聖に向かう。
そしてイエスは天に迎え入れると約束し、日蓮は成仏するとしたが、これもまた共通しているのは、生きている間に神の国が到来し実現し、生きた身のまま成仏・即身成仏するとも言っている。かつ、瞬時に地獄へ落ちる愛と慈悲への違背の明示もしている。
子どものように素直にイエスの教えを受け天の国へ行けといい、柔和質直者則皆見我身と柔和に素直な者は皆即釈迦日蓮の姿を見るというなんとも同じような例えばかりがでてきて、彼らイエスと日蓮は会議をしても討議がうまくいくだろうと戸田城聖(日蓮正宗大講頭=全信徒代表)が言ったのも首肯である。
われわれ凡人には、カトリック信徒なら日蓮はけしからん、日蓮正宗信徒ならカトリックなんて悪い、そんなつまらない諍いが必須に見える。
しかし、根本教義について、そして聖人の言動を比較してみると、諍いよりもひとつの宇宙大の光そのものに導かれていたことがわかる。
聖書キリスト教でも宇宙のはじまりから、御書日蓮正宗でも無始無終久遠元初からという共通した時間設定のもと、創造主の神と根源法則と一体の無限大パワーという単なる表記法の違い、説明法の違いにすぎない真理法を説いていることが明瞭である。
要するに、様々な事柄と向き合って嫌でも生きていく消極的な人生がよいか、聖の見方言動をマスターしていく方向性で積極的に光の中を根源的な光に向かって生きていく人生がよいか、二択なのだ。
その観点からボランティアや人間性を捉えなおすことは有意義だろう。
ただし、聖人を誰に設定するのか、間違えると大変なロスが生まれるから要注意だ。