紀元前564年釈迦生年
0年前後キリスト生年
570年頃マホメット生年
1222年日蓮生年
1390年頃から1600年代発フリーメーソン1549年ザビエル到達
1957年日本フリーメーソン
聖人の定義はさまざまなので、異論があるのは当然に自由だ。
時系列で偉いというのも難しい。
古くても使えないものは仕方ない。
しかし時系列を素直にそのまま見ることにする。
釈迦はとんでもない昔から生まれ変わってこの広い宇宙で菩薩をやってきたそうだ。どの生涯にも師匠がいた。
これは永遠性のある師弟を確定している。
キリスト教のミサでは、生生世世に、永遠のいのち、キリストは神の遣い、キリストの復活などの同類項のものがあるが、2000年を目処にその先については言い遺していることがわからない。もう地球上に生命体がいなくなるものとして別の星を想定したのか?
釈迦の教えも分派ができたが、保守正統は天台・伝教・日蓮となり、釈迦の予言どおり日蓮が釈迦の師匠だったり弟子だったりの関係を披瀝したが、ポイントがいくつかある。
ちょうど2000年になる前の西暦1222年生(1253年立宗)というズレが意味していること。立宗と778年のズレ。
釈迦は死後を500年ごとに区切り末法のはじめの500年をクローズアップして、パンパカパーンと日蓮登場を猛アピールした。
日蓮は教えに、末法万年尽未来際までという地球文明の最期まで有効だと曼陀羅を遺す。
キリストは2000年に地球滅亡と。
キリストは日蓮登場を予測していなかったし出来なかったというところ。
日蓮は聖人と賢人の出生について、聖人は1000年賢人は500年に一度としている。
冒頭の時系列で見ると、釈迦と日蓮が聖人でキリストやマホメットなどが賢人にあたるとする見方もできるし、賢人はクマラジュウと天台と伝教と日寛だという日蓮正宗信徒もいるし、キリストが聖人とかマホメットが聖人とかそれぞれ好きに考えるものだ。
年表上の設計図がもうないキリストの教えを、天の国を地上に実現するために尽力するうえで何が重要だろうか?
人類はフリーメーソンを大まかな基準にしているように見える。
実際に聖書が真実を説くための譬喩事例集でしかなくなった21世紀に、真実を求めている人類の幸福という目標は近づいているようでもあり遠ざかっているようでもある。
キリスト教文明は破滅に向かって地球を乱開発した。
もう処女地はなく希望もない。
すべての人間の生命活動は商業化され宣伝に利用されて、もはや生存価値などないかのように刷り込まれる。
努力は虚しく焼け石に水、砂漠に水をまくような無力感。
ネバーエンディングストーリーというメルヘンチックな映画のキーワードは虚無だった。
人間には感動、勇気、希望、真実、聖人、充実が必要だ。
永遠性、憧憬、前向きな希望、建設的行為、丁寧な積み上げ。
その本来的な人間の喜びに還る手段や基本がいくつかある。
楽しめと強圧的に命令される商業的社会にあっても、そのことに思いめぐらせて深く味わう時を大切にしたい。
世界の三大キリスト教は一致して戦争に明け暮れ、キリストが世界の王から殺戮の手下に成り下がっても平然としたもの。
未来永劫の喜びを捨てて、人類を地獄に突き落とし、地上に平和がなくなるように行動している。
もはや人道や人間性を確認することも難しい。
実現性のない教えだということが現実に事実事象としてある。
目標や規範としてはキリスト教や各宗教にもよいところはあるが、不可能なものをいかに具体的に可能にするか?
金儲けと宗教で出てくる答えは虐殺しかない。
人間の条件、人間に還ることが第一だ。
大石寺を知らない人類が不憫だ。
みんな政治的に宗教を判断して間違える。
日本人なら神道で、欧米はカトリックかプロテスタントが良いに決まっていると考えるものだ。
そこが死角になっているとも知らずに。
日蓮宗(正宗)の偏頗な信徒の盲点がキリスト教文明であることも珍しくない。
しかしながら人類のアンカーは日蓮で手には法華経を握っている。
キリストのせっかくの高尚な教えも聖人たちの尊い犠牲も無駄にしては申し訳ない。
実現性と永遠性を両立させるべくいかに生きるか?
よく考える必要がある。