FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

「楽器の王様バイオリン」論争

音楽には恨み・羨み・怒り・復讐心などはそぐわない。 しかし階級闘争に燃える悪平等主義者たちは、バイオリンの崇高性や音楽性を否定することを常に狙っている。 ある日教組メンバーらしき教諭は、私が小学生の頃に作文に検閲を入れて段落ごと削除した。バイオリンを王様とすることは許可しないと言う理由であった。 教諭は政治的意見を児童に対して強制しても構わないと考えていた。 そしていかに優秀な成績であれ、科目ごとの評価に良いと悪いを一つずつ、それ以外を普通でつけることを強要した。 優秀なら良いがたくさんあって、勉強しないと悪いがたくさんあるが、それは不平等だという主張だ。未だに、私はその教諭が間違っていたことについて本人に対しては何も言う機会がないし、 ないままだということに釈然としないものを感じている。彼らは自分たちが神と同一の支配者として名器を所有し、演奏家を隷属させる人種なので議論が成立しないことは予め推測できるとはいえ。

本題に入ると、バイオリンは楽器の王様と言っても構わない要素がいくつもある。 その表現を特権階級と富裕層の専有物としての象徴として用いる場合がある。 しかし、私はそういう面にはそれほど興味関心がない。 そして、そういう社会経済的な面ではない音楽と楽器の要素こそ「楽器の王様バイオリン」と言う根拠であることを、 ここで説明したい。 まず、楽器の音域でバイオリンはかなり広く、アップライトピアノほどではないが最も広い楽器のひとつである。 同時に4つの音を発することが可能だが、 (実際には3つか2つが限度)2音以上独りでやろうとしても管楽器ではありえず、 バイオリンはかなり優秀だ。 鍵盤楽器はいずれかの純正律音階で調律すると他の音階が狂うため、平均律で落ち着いた楽器である。 つまり純正律で演奏することができず、直接的な歌う旋律で音程が微妙に違う、つまり理想の歌にならない。 それに対して、本当に完全に歌える弦楽器の優越性は絶対的で音域からもバイオリンは人間の歌ともっとも共鳴する楽器だ。 当然和声の純度も完全にすることが可能だからその優位性は揺らがない。 鍵盤楽器は音域が広くて10音を同時に発することができ、伴奏と旋律の両方を同時に演奏することに長けているので、その面では独奏に向いていることと併せて、ピアノ鍵盤楽器こそ楽器の王様だという主張も成立すると思う。 しかし、敢えて王様はバイオリンだというのが、音楽は一人だけでやるほうが機会としては少ないから、セッションを前提にして楽器を比較すると、むしろバイオリンが最優秀だからだろう。 バイオリンは伴奏パートが十分にできるG線あるいは5弦バイオリンはC線を持っている。もちろんG線の最低音は男性のバス音域をすべてカバーできない。しかしいかなる音階設定の楽器やセッションに対しても対応できる変幻自在の音程調整を人間の耳を駆使して可能である。 重音も多彩に駆使できて超低音域を捨てても音楽表現上特に困らない。 弦楽器・バイオリンはある程度古くなっても修理して使える。管楽器はすぐに寿命が来る。 使う材料の量がまったく違いすぎて維持修理費用がコントラバスがもっとも高額で、チェロ・ビオラと安価になり、バイオリンがもっとも安価である。 楽譜を探すと、弾く機会が多い曲のバイオリン譜は無数に無料で入手できるが、他の弦楽器や管楽器の譜面はだいたいアレンジつまり転調がうまくいかないものばかりで苦労が絶えない。 そして初心者用のバイオリンは昔よりはるかに品質の高いものが3万円前後で買える。 量産部品を使用して工期を短くした半職人製のものでも30万円程度、すべて手製でも60万円まででしっかり選べばあるものだ。 弓など7万円で十分に使えるもの、カーボンの優秀なものなどがあるから、その新作の値段もバイオリンが最安値なのである。 そういう門戸の広い誰でも取り組めるようになっている楽器としても、つまり社会経済的にもやはりバイオリンは王様だと断ずるものである。 音楽には恨み・羨み・怒り・復讐心などはそぐわない。 階級への恨み・羨み・怒り・復讐心をクラシックバイオリン愛好者たちに向けるのは、音楽を素直に楽しめない哀れな地獄の亡者である。 人間として人道的な愛に満ちた神からの贈り物をストレートにありのまま見る必要がある。 クラシックバイオリンやクラシック音楽を宗教的なものとして見ることの愚かしさについては、すでに別の記事で書いているから参照されたい。