FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

バイオリン学習の複雑なケース 自己診断カルテ

3歳から鈴木メソッド教材を使う鈴木鎮一の弟子の教室で学習を開始。

7歳半ばから妹の出産と大病のため度々学習が中断される。

夫婦喧嘩で11歳の発表会から親の付添がなくなる。

小六から中一まで受験のためという理由で強制的に中止させられる。

大学受験のためという理由で高校入学と同時に強制的に中止させられる。

就労拒否者扱いされて23歳~50歳の現在まで強制的に中止させられ或いは教育環境から排除される。

 

この最初の15歳までには、耳も音感もよくて器用に弾いていた。音階練習すらほぼ要らないくらいの感性だが、もちろん一定の音階やエチュードは必要になる。

その段階で指導を受ける機会がなくなり、しかもまともな合奏の機会がなくなったので、孤立する中で音楽が難しくなるのは当然だ。

最近具体的に修正してもらっているが、気が付くのは自分の耳が聞こえていないことが多いこと。そして平均律音階に引っ張られすぎていること。左手の感覚に違和感があること。左手の違和感については以前にも書いたが、音階の違いも再確認している。

本来はどの音階でも瞬時に優れた聴覚と連動した左手の絶妙で自然な感覚で弾けたものが、まったく五里霧中、音階の調性から耳で掴みなおし。

弓はスカスカになり、音の響きの豊かさが損なわれていたものを、思いのままに出せるように試み中。これはよい新作楽器の特性を掴むことと同義で、軽く触れてもしっかり発音するから、弓の載せ方のコツをつかむ。

かつての悪い楽器はゴリゴリ力をかけても優しい音、バンと弦を叩いてもふわりとした発音だったので、その違いを掴むのはかなりのラグで骨だ。

慣れていたモダン楽器の棹は薄くなっていて、その違いに慣れて左手の形を覚えなおすのは、まるでビオラに持ち替えるくらいのラグ。

苦情が一切ない環境で合奏やオケ学習の機会がふんだんな場合、この複雑さは大した複雑さではない。

しかし23歳以降、政治的宗教的に敵視する人に囲まれて個人が孤立したまま、指導を受けることで改善する速度は遅い。

改善よりむしろ悪化してきた流れを止めて、逆流させて回復させるのは難しい。

この先上達したあとも同じだから、一からやり直すのはやぶさかではない。

潮が引いて引き切ったところから満ちはじめの動きが見えているから苦はない。

しかし進歩は緩慢にしか見えない。

バイオリンを習って弾くことで、むかしから陰に陽に損をしてきた。

得にはまったくならない。

音楽の徳を動物レベルに敬えと言っても理解できない。

周囲が支援する人は才能があると言ってチヤホヤされるだけで、不遇の人に才能がないわけではない。

ストラディバリとガルネリのように、あまりにも条件が違う。

なぜガルネリを周囲が支援しなかったのか?

人間は高度な精神的能力を持つことができるが、ガルネリ一族しかガルネリの高度な精神的感性に従わなかったからだ。

同時代に生きている人は同時代の人を殺すことができる唯一の人間だ。

人間は人間を生かすだけではない。

才能を殺されることが歴然としている場合には、光のあたらない才能を育て生かしてくれる人間を求めるしかない。

おだやかに存在を認めて経費を出す場所が居場所なのだ。

逆に存在を認められず経費が出ない場所に居ることは自殺行為だ。

それが私の学習の複雑さそのものであり、社会心理的にも重要な点だ。

弓を弦に載せて弾くことができるかどうか、弓が手につくかどうか、自然なリラックスした楽器とのタッチをいつもできるかどうか、型を無意識的に選び取って痛みなく美しく弾けるか、それらが平たく言うところの上手いバイオリニストの基礎条件だが、それらの条件を決定する要因を無視することは無駄な努力を重ねることである。

したがって私の場合、日本人講師に習うことは無駄なマイナス面が際立って感じられる苦痛なのである。

日本人講師に習うことで、原則、基礎条件は悪化し下手になるからだ。

無駄なだけならまだよいが、悪化するとしたら。。。