よく人権という単語は耳にするが、ずいぶん使い古されてきて意味合いが統一されなくなった。
私は専門家ではないが、自己の主張のため、私利私欲のため、他人の迷惑をかえりみない人権とはなんだと疑問を感じることがある。
善人ばかりではないから、悪人の人権もあって、悪意のない障害者高齢者にも人権がある。
つまり条例法律で悪事は取締り捜査や調査が必須でセットなのだが、そこは現代にかなりの問題がある。
表面化する悪事は氷山の一角だし、むしろ捜査機関や行政が動かないことを見越している悪人が増殖している。
商船を攻撃したイスラム系の若者たちも人権を主張する。
日本の反社ヤクザ系新興カルト創価も人権を主張する。
要するに、善事と悪事の平等主義で悪事の権利を認めれば、世界中が悪事で無秩序になり、善人が誰も居なくなる。
世界はカネと権力だけのユダヤ帝国主義と反社の対立に終始することになる。
日本国内も同じだ。
そこで倫理とか個人の資質は期待できない。
人間ほど悪知恵の働く生き物はない。
平等や人権という単語は健全な機会均等のみに限定してしまうべきだ。
なんでもかんでも自由平等に人権がみんなにあるならば、犯罪組織やカルトはやりたい放題で、世界なら武装勢力とイスラム系がやりたい放題。
国連の求心力低下の原因はそこからなのである。
パレスチナ難民を救済するならば、自爆やテロ奇襲などを完全に制圧排除したうえでの支援でなければ、世界の賛同は得られない。
ガザ地区からは漁船で密航しなければ逃げられなかったという話も、逃げるための期間は充分にあったし、土地に拘る状況と狂信的宗教の天秤も考慮すれば、難民が再度難民になるという苦難は気の毒だが、死を選ぶのはやはり狂気だ。
日本人にも日蓮の「死は一定」という言葉を曲解して危険な自爆攻撃や破滅的選択に使う宗教家たちがずっといるように、世界中に人権や宗教をも悪用して他者を攻撃する勢力が散在している。
難民支援は非武装化を第一条件にするべきだ。
難民収容施設に武器弾薬は必要ない。
日本の政府や公益団体や調査研究組織などが、いかに反社を優遇してきたか、その罪深さを考える人達はいないのだろうか?
人権アレルギーの源は反社優遇だ。
国連主義で世界秩序を安定化させるためにも、そこを明確に差別化してから、すべての生命の尊厳を護るべく人権擁護を推進して欲しい。
国連組織や個人の善意からどれほどイスラム系を支援してもユダヤキリスト系にテロ奇襲しかやらないのだと世界各国と多くの人々は結果的不公正な支援に見切りをつけたかのように見える。
善人と善人の平等は幸福。
善人と悪人の平等は不幸。
シンプルに幸福のための基本的ルールが有効化されるか無効化されるかの結果重大性を考慮するかどうかである。
差異を認める瞬間、優劣、いずれかの優先度も認めなければ無秩序と混乱で戦乱と難民を生む。
人権は人間の賢さが条件であり、あまり喩えとしてはうまくないが悪人や売春婦を自分で選択するからには、同時にまともではない死を覚悟するわけであり、ほとんどの場合それが狂気だと自覚するべきだ。SNSも危ない場合が多く賢明なツールではない。
犯罪をやれば私権は制限されるレベルの知恵くらいは人間ならば持っていてもよいが、それすらわからない人類の水準低下はかなり深刻だ。
そういう人達がテロ実行権、犯罪遂行権隠蔽権などを本気で信じている。