FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

お題目宗が世界を乱す大衆文化になる理由のひとつを音から見る

カオスというのは、森羅万象の有り様とは別に、そもそも人間が理解力の欠落から錯誤判断して行動することの結果生まれる状態を指しており、人間の邪智がなければ、地球にも宇宙にもカオスなど逆に存在し得ないという見方ができることは、それなりの説得力のある仮設であると思う。

よく動物の方がまだマシではないかと思ってしまう日本人は多いと思う。

なぜ人間は邪智に染まり、誤った行動を正しいと信じ続けることができるかと言えば、もちろん宗教や共同体の慣習や盲信の累積からくる自己過信自信過剰である。

さて、その一念三千(観念上理論上の完全無比の完璧な分類)分析選択をパーフェクトに修行で会得できるはずの日蓮正宗ですら、無軌道なまでの乱脈信心に陥るのはなぜなのか、それが重大な問題である。

彼らにはそんな自覚すらない。

ユダヤ神道の戒律さえ守っておれば常識豊かな社会人だという過信による宗門の庇護に甘んじて、正しく修行することはもはやなくなっている。

その問題の答えのひとつが、お題目そのものにある。

よく末寺でトラブルになるのが、一定の速度で唱題しないから、音律がバラバラすぎるから、気に入らない人がいるから、という理由である。

お題目宗を聴き比べてもやはり速度も音律も音色(声音)もビブラートも受け入れ可能な身分も異なるから、実は正しい唱題とか唱題は正しいとかいうだけで、まったくそんなもの存在していないのと同じである。

基準になるものが大石寺法主を筆頭とする僧侶の唱題しかなく、しかも末寺の住職になると気分にまかせた私利私欲の勝手気ままな者が各地で跳梁している。

カオスは人間が作っているものであり、僧侶が作っているものでもある。

美しい音律が一糸乱れず調和して人間の心に心地よく響く場は、残念ながら大石寺しかない。

喚いて発散する題目、自己責任で束縛されどおしの題目、快楽だけの題目、優越感に浸るための題目、恨みの題目、自己主張の題目、それらの不心得な題目が入り混じったほぼすべての題目は不純で邪なものである。(99%程度の折伏も同様に邪悪なものだ)

ほとんどのお題目宗が西洋音楽純正律を排除していることと、大石寺の唱題と別のことをやっていることは、不思議にも一致する。

間違いを流布し、人間が汚くなり、浅ましい根性を育成し、成仏すると言って無残な死に方を自己責任とし、財産を吸収し、教育費をかすめ取ることを常識的信心とすると、商売人は喜ぶし、政治家は楽で仕事をしなくてもよくなる。

ひどい政治状況というのは、本来は日蓮が正そうとしたのだが、現代においては、むしろカオスや残虐さを加速させており、その現場での教えの乱れ、教えの現実に即した間違いや大衆向けの教えを乱発するやり方によって、世界が乱れている。

音楽で純正律がわからなくなってきつつある人類は厳密には聴覚障害が蔓延しているのと同じだが、お題目でも純正な大石寺の唱題がわからない日蓮正宗僧俗が不信心に陥っているのは大差ない現象であろう。

ただしきたりを守る意味は感性を守ることにあり、純不純を感じ取れるかどうかという人間の基本的な基礎部分が侵食されないためにこそ正統の意味、口伝伝承の意味はある。

大石寺でしか感じ取れないものがあるということは、法として、修行法として、人類社会にとって、不完全で不十分なものであり、音楽の世界展開と正統の分布発展こそが、正しい人間としての本来の感性を呼び覚まし想起させ続けて維持していこうとする力になりうる。

たくさんの汚い題目を見聞してきて、毒を浴び続ける極端さ、法華講が毒を蒔き続ける現象の因果関係をつぶさに見届けて、音楽の正統の価値がよくわかる。

創価学会員の発言で、世の中が乱れたら共産党は支持者を増やすことができるからケシカランという理屈があった。

それはお題目宗の誘導していることだと自覚できないらしい。

世の中に社会正義が確立されてしまえばお題目など要らない。

お題目宗の存在意義はなくなる。

だからこそ、お題目を弘めていると言いながら、社会正義を排除し、人間性に目覚めないように予防的に政治力を持ち続けようとしているのである。

つまり仏教全般に大衆を隷属させ、屁理屈や詭弁珍論を学者宗教家が並べて誤魔化す社会的不正義のシステムを維持するために利用され、利用されるがままになっている。

お題目を音響、音楽的に緻密に解析して比較してみた結果行き着いた結論として、お題目宗は人類を不幸にする有力な財閥の僕でしかない、仏教は有害であるというところに至った。

内道は中途半端なら有害になる。大石寺敷地内や周辺ですら不謹慎な不祥事がある。

おおよそのいい加減なというのが、あまりにも不正義と非人道的なものを誘発しすぎる。

戒は実際に破るためのものになっている。

中産階級以下は存在そのものが罪悪となり、いくら死滅させてもよいことになる。

そんな無茶な宗教のひとつにすぎない。

いくら立派な教えを説いても、修行が滅茶苦茶で世を乱すだけのお題目宗では、世界の大衆ひとりひとりを救うことはできない。

むしろ大衆文化のレベルを下げ続けている罪業の深さに思い至って、根本的に信心を改め、改めさせるための大石寺法主以下でなければならない。

そうでない現下の御僧侶方は悪侶悪弟子の悪党であるという仮説の理論上の正しさと実際上の正しさが導かれる。

それを否定して自分たちさえよければよい、自分たちは成仏するのだと開き直るのは、カルトであり社会性を著しく欠く悪しき宗教であることを証明することになる。

宗教というのは、人間にとってまんべんなく学ぶ必要のある教養と規範作りの参考知識である。(日蓮の御書、キリスト教イスラム教の聖典にはその思索検討の軌跡が明瞭だ)

特定の宗教宗派に所属して幸福を感じる異常性偏頗性を自覚しておかなければならないと思う。

自分たちは絶対だというのなら集団自決でもしていただきたい。

絶対的な宗教活動、絶対的な宗教は完全に人類にとって有害なものである。