なんとまだ裁判中なのだそうで、公開してもよいと一審でなって、プライヴァシーにかかる地名だけ公開するなという判断が出たらしい。
もともと1935年の内務省の資料なので正式な間違いのない事実としての内容を非公開にしろという要求は、事実の隠蔽につながる暴論にも見える。
過去における差別問題と現代における問題は別の角度から見なければ、様々な不利益や損害が発生するから難しい。
公開したからと言って差別されるというのは真実ではない。
非公開にしたら探偵事務所あたりが儲かるだけで、差別はなくならない。
そういう意味で、間違いなく正確に資料は保存し公開するべきものである。
同盟の人たちに意見するつもりはないが、なぜ差別をする人たちと直接対話をしないのかと疑問に思う。
資料を公開する人は差別していない。
公正な一面のある人を圧力で黙らせたり司法権限で抑圧するのは感心しない。
現代は情報公開時代だ。
たとえば会社が採用を取り消す根拠にしたら、それは差別だという理由にはならないことにまず気が付くとよいのだが、会社都合の内容を討議する場合に会社の利益を総合的に判断する結果採用しない判断がなされるので、読み違いで損することもあれば得することもある程度のもので、目くじらをたてるほどのことではない。
応募者の能力やアピールが弱い場合にしか取り消さないだろう。
会社というのは、ほとんどそういうカネで動くだけのもので、そこに人道性をどこまで期待できるかというのは、調査のとおり一定の企業だけである。
結婚差別となるとさらに個人の判断であり、むしろ同和地区出身の人たちはうまく人をだまして甘い汁を吸うことに成功している場合があるだろう。断られたというよりは、玉の輿に乗り損ねただけで、うまい話がうらやましいのだろう。
逆に同和地区の価値観によって、良家やその子弟に不利益を与えるために虎視眈々とあげ足をとろうと付け狙っている政治団体や関係者すらあり、むしろ現代にあっては同和地区出身の政治団体や関係者は差別する側でもある。
恨みから、自分たちよりうまくいっている人たちが妬ましく憎いからこそ、圧力団体としての威力を発揮するためには、現代においてもひどい差別が横行しているというイメージをアピールして正義を訴える必要がある。
政治的キャンペーンの一面を否定できない。
差別というのは善悪ではない。
悪いに決まっているという人はまだ未発達だ。
差別をいうのは不幸にもなり幸福にもなる個性だ。
大事なことは、今この瞬間に差別されたとしても、それは永続しないことだ。
いかなる不幸な差別も許さないためには、差別された時に不幸を幸福に転ずる知恵。
差別する側にならないこと。
その両面が重要だ。
一方的に差別されているのだと主張している時点で、矛盾と無理筋が前提になるのはそのためだ。
たとえば仲良しの異性のプロポーズを断る場合には相手に気遣いをして断る。
出身を気にしている人に対して、気遣いは当然のこと。
断る理由が出身ということは本来理由としては成立しないものを持ち出しているわけで、そこには誤った偏見を前提にした社会的計算打算が働いている場合や生活習慣のひらきに不利益を感じる場合やその個人の不都合がある場合など、いくつもの個人の事情があることは推測できる。
つまり同和地区出身の人が断られるのは、同和地区だからではない。
たったそれだけのことを、江戸時代に固執して主張するのは、一般的には相当難しいと判断されるのではないか。
差別する側は、差別の手間暇をかけるので、それだけでも不利益で、差別は悪いと言われる不名誉を覚悟してもなお排除するわけで、外国人とか女性とかパターンは違えど困ることがあると信じ込んでいるのではないかと思う。
しかしだからと言って実際に困るケースの蓄積を隠蔽してはならない。
インド人とパキスタン人は距離的に近いが、宗教から文化からまったく違うものを差別するなというのは無理だ。
同じ人間だから、幸福になるために同じ企業で雇用され、結婚するのは、誰も悪いとは思っていない。
うまくいった例もあるわけで、国籍もなにも全部同じ。
差別なく雇用されたら幸福とか結婚したら幸福とかいう思い込みもまたただの思い込みにすぎない。あとから破綻する事例はごまんとある。
だれでも気が付きそうなのだが、就職や結婚のマッチングは大学レベルの知識量があれば、また現代のネット環境があれば、20代くらいでは個人差が大きいが、かなりの人が合理性のない差別をせずに賢明に判断できる余地がある。
むかしからの共同体の上下関係で同格同レベルの良縁を紹介してくれというのはあまり一般的ではないようで、世界人類から最適な相手を探す旅路は遠いのだが、そういう時代だから、なぜ江戸時代にそこまでこだわるのかよくわからない。
こだわって共通の価値観として恨みと憎しみの集団を形成することで、さらに一般人は恐怖を感じて差別は正当であるとすら感じるだろう。
つまり企業やプロポーズ相手に対する利益をアピールできるようになることが一番の肝なのではないかと思うが、当事者なりの視点を開くことができるかどうか、心の問題は宗教的だったり経験則だったり難しいところだ。
法人も個人も利益になることなら考慮するし、その利益の部分だけでは判断していない。多重構造の損得を完璧に即決するのはそもそも無理だ。
不愉快な情報公開はマスコミでもよくなされており、規制をかけたくなる気持ちが本当に同和の利益になるのかどうか賢明に熟考する必要があるのではないか?
建設的な訴訟とはとても思えなかったので、記事にしたが、結論はたとえ善意として公開していなくても、善意として受け止める心を大切にしてほしいという願いと出身を問わずみなさんが幸福になって人生を豊かに楽しめるような正しい基準を見つけられるように願っている。
合理性のない内戦はよくない。漁夫の利をうむだけだ。
政治活動は参加して一定の利益を生むように見えるが、実際はマイナス効果が極大になる危険行為であり、かなりの慎重さが必要であることを認識しておくとよい。
日本における政治活動の危険性はみなさんがたくさんの凶悪事件の記憶とともに知っているが、おそらく過半数の国民は、与野党ともに建設的な議論がないことに恐怖や嫌気を感じている。
ストレス発散のエンタメ化政治の風潮は危険でもある。
ブログで書いても、別に誰から好かれるわけでもない。
ただ建設的に平和的な人間の知恵でみなさんが個別に幸福になってほしいから書くだけである。
日本語なので、誰かのためではなくて全国民のためである。
せっかく社会正義を重んじる心があっても、自ら不正義や隠蔽を主張するのは自殺行為になるだろう。
先日、吉川ばんびさんの記事を読んでいて、問題は別だという視点が共通していたので、そちらも参考にしてほしい。
仏教では「勝他の念が強い」「修羅」という心、優越感で他者を見下す心、侮蔑しているからこそ助けてやる心、という類は程度が低いとされている。
悲惨な地獄、餓鬼、畜生の三悪に君臨しマウントしたい心、神道の心、日本の心というものの特徴的欠点なのかもしれない。
十字架やキリストを拝んでいる大多数の日本人もまた、その日本の心にとらわれている。