FujiYama’s blog

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ボランティアは偽善だという学生へ

f:id:FujiYama:20220108212839j:plainボランティア活動が単位になったり評価対象になるので、みんなボランティアに参加する。

それは偽善であって善行ではないという見方をする学生がいるのは、珍しいことではないが、社会的には決めつけたりそんな発言をしたりする立場ではない。

反社勢力構成員がバスでお年寄りに席をゆずって善行をなすこともあれば、東大卒の公務員がバスでお年寄りに席をゆずって𠮟られることもあり、学生の学習として行われる数学もボランティアも善行であり、学生が私学で医者になりたいと言って叱られることもある。

ひとつは主体の善悪は無関係であること。行為の対象が望むかどうかが別の場合があって善行が強要になる場合があること。学習ならいちおう善行である範疇であること。家計の予算を超えるものは善行でも悪行とされること。

もうひとつ極めつけなのは、内心悪意をもって善行をなし、善意をもって悪行をなすというところを、人間は常に選べないというところである。

学習が善行なのは、そのスキルによって善行、社会貢献、業務を遂行できるからであって、そのスキルが悪用されることが多々ある。数多くの音楽家ナチスのもとで演奏させられ、その真心と善意は完全に虐殺や戦争のために利用された。いやいやながら協力させられることもあり、しかし進んでヒトラーに協力したエリートたちがいたことも確かだ。現代の北朝鮮のエリートも西洋に留学して国民の餓死や虐殺を遂行し、日本の官僚も技術力をある程度もって、日本人の個人と弱者を締め上げる施策を遂行している。

そもそも偽善という言葉は、その公開していない人の心が悪意であることを偽って善行をなすことであり、悪意のある人も反社勢力も善行をなすことができるのであるから、誰それが私は偽善行為をしたのだと自己申告しない限りは偽善が成立しない。

悪行は行為それ自体が客観的に悪行であり、偽善でも善行でもないからはっきりわかる。

同じ人間の同じ業務やボランティアであっても、同じ一日の間にも、偽善は生じうるものだが、そんなことは公開しなければ誰にも指摘しようがない。

現代の社会では、情報公開という制度をもってその偽善を取り締まることを目的とはせず、悪行が発生する過程を統計的科学的に分析して、過失や過誤などが発生しないように改善するのが公正な流れであるが、日本や北朝鮮ではそうはなっていない。偽善と言われたくないから悪事を開き直るということが常態化している。偽善だと自ら認めるようなものだが、それは印象の問題だからだれも言えない。

ポイントはむしろ悪行を自ら認めようとはせず、その悪行の発生過程を闇に葬り、改善を拒否する点である。

それが、政府の情報公開の拒否であり、先日の和解金による裁判審理の早期終結などという暴挙なのである。

学生がいくら努力しても、それは地域の平和や繁栄のためではない。

学習やボランティア活動をどれだけ頑張ってもそれは弱者のためにならない。

エリート富裕層の体裁のための兵隊の役務、上官の命令に従っただけである。

人間の善意と悪意を正しく理解できない間は、仏教を習い学ぶことが先決である。

それは天皇だろうが、学者だろうが、政治家だろうが、科学者だろうが、なんだろうが同じ人間としての基礎、基本なのである。

最高裁判所裁判官ですら子供のレベルの理解力しか持っていないのが、人間の心についてであり、特に自分の周辺の価値観だけで他人を判断する我が心についてなにも知らないというのが真実である。

日本で社会正義を期待するのは不可能に近く、社会正義を理解している先進国諸国の方々との有意義な交流こそが心の善悪と社会正義の矛盾を埋めるための方策だ。

昔の日本人は大学に行く階層が、みなさんの幸福という建前を考えて大学に行き、そして政治家になっていた。

今は、まったく自分の立身出世や私利私欲だけになっている。

日本だけがここまでひどい政治状況になっているので、ますます給付奨学金の整備拡充は難しいだろう。

今の過半数の日本人たちは、公共性、公益性、社会性という言葉を理解できない。

日経の論調そのままに、インフラ整備や教育に対しての施策すら社会主義だと批判する有様である。

個人の私利私欲に税金投入はできないというのが緊縮財政の根拠である。財務省と総理大臣が言う通貨の信用のためというのは詭弁であり、富裕層の信用のためにあらゆる国民をただ同然で酷使するための方便にすぎない。

酷使されてなにかの病気を発症したり自殺したりする流れを主流にするしかない。

その点相変わらず日本人は不幸な民族なのである。

自分さえ幸福ならそれでよいというジャングルの動物レベルなのである。

どんなに能力が高くてもどんなに努力しても、人間としての基礎がないことからくる不幸は、仏教(日蓮正宗)でしか克服できない。

日本には自分が不幸だと気が付かない人たち、重症の人たちで満ち溢れている。

地獄界で権限や資産を持っていて幸福と感じるのは、その向こう側の地上の人間と感覚が違うことに気が付かないからである。

批判や偽善などなにも気にしないで善行をなす勇気を持つしかない。

善行の種別や有効度合いなどについてきちんと思索できるのも、人間のレベルが必要で、仏教やキリスト教の深いところを知らない間はわかったつもりにならずに、とにかく善行に向かい学び続けることだろう。

結局、宗教の間違いほど重大な間違いはなく、善事だと信じこんで騙されたまま善事もどきの悪事を遂行するほうがよほど悪いことに気が付かないまま一生を終えるのがほとんどの人間の到達点である。税金を湯水のように浪費して見事悪事をやり遂げて、勲章自慢などするのがおちなのだ。

事実認識と具体的対処法において、日本のエリートや組織管理者たちの行為を見る限り、どうやら偽善者は彼らしかいないようだ。人をひき殺しても私的に対応しない。法律上の責任をとれば謝罪しないというのは真実悪人であり、悪行としての謝罪不作為である。

そういう人間たちが日本のためになにか貢献できるはずがなく、今も国中いたるところで苦しみと不毛な努力を強いられ続けているのが国民なのだ。

今現在の幸福が、ほんとうは現在の他人の不幸、自分の未来の不幸なのだと認識できない能天気な日本人が多すぎる。

原子爆弾はそんな日本人に投下されて、アメリカを恨むことより、今現在の幸福がほんとうの幸福ではないことにきちんと向き合うべきなのは、昭和二十年八月の広島・長崎市民だけではなく、令和三年一月の日本人のみなさんも同じである。

そんなほんとうのところがくっきり見えるのは、私の場合欧米のクラシック音楽の優秀なソリスト日蓮直伝の大御本尊のおかげなのだと思う。