インドの古典音楽に二十年以上前から好感を持っているが、それは伝統楽器にバイオリンが入っているものがとても良かったからで、インド音楽の良さだけではないシタールで揺らす音程の取り方をバイオリンでもできてしまうバイオリンの持つ可能性の広さにも惚れ惚れしてきた。
日本人の伝統としては、琵琶や笛や琴などを浮かべるが、シタールなどからの音の揺らしかたがよく似ている。
日本人の音楽の感性にはインドの古典音楽の感性がある。
インドの世界観そのものでもあり、日本人は気付かないうちにその影響を受けている。
インドの階級社会の常識から日本でも音楽は富裕特権階級の専売特許だという変な決め付けが残遺している。
スズキ・メソードも初歩だけで門戸開放にまではなっていない。
欧米は比較的まともな平等観に基づく音楽教育が普及しているから、人類としてはいくらか繁栄している。
一長一短で、その開かれた欧州の音楽は高度に技術的発展をしすぎて逆にあまり世界に普及しないものになり、結局富裕特権階級の専有物に逆戻りする現象が起きる。
インド古典音楽は間口が狭すぎて誰もやれないのだが、演奏そのものはシンプルそのもので技術的にはそれほどハードルは高くないものに見える。
共鳴を重視しているインドはちょうどバロックルネサンス時代のイタリア音楽にイメージがかぶる。
そこから飛躍してバイオリンは改造されたけれども、一周回って欧米はインド古典音楽とのセッションに帰趨するところが面白い。
バイオリニストの故メニューイン卿はインド音楽に溶け込むというよりインド音楽の世界では音色がきつすぎてやや浮いていた。
現役バイオリニストのコパチンスカヤは過剰に技術的優越性を誇示し過ぎている。
結局は思想哲学のレベルが如実に出てしまうのが音楽の恐ろしいところ。
インドの階級差別は決して善いものではないが、階級社会は世界中同じであり、その叡智と音の世界がわれわれに示しているものは、シンプルに魂の平等な永遠の流転であろう。
時の流れの中の変わらない人間の心のうつろいがストレートに伝わってくる音楽。
狙って心を高揚させる欧米音楽。
文明や文化の変遷が見事に掴みとれる音の世界が伝承され共有される人類。
ロシアから世界を回ってソ連に帰国したプロコフィエフが言う人類の精神の勝利を実現するのはどこか一地域の音楽ではない。
どこかでわれわれは時空を越えてつながっている。