バイオリンはお兄さんのレッスンをしてあげている間、弟は横になって待っている。そうすると弟はしばしば眠ってしまう。
順番だからどうしても弟のレッスン時間はとってやれない。
ところがどうだろう!
姉妹でも同じ例があとをたたないのだが、眠りこけていたはずの弟や妹たちは、お兄さんお姉さんの音を聴きながら寝ていたのだ。お兄さんお姉さんより上手にスラスラ弾けてしまう。
そんなものだ。
私の兄弟だけでなく当時だけでもないことがわかってきて、面白いなと思った。
ただ、数字や文字のお勉強となると、性格の問題のほうが大きくて、リズムやメロディーを楽しく憶える感じではなく、本好きな兄だけが普通に素面の頭の良さを苦もなく獲得したのである。
幼児は絵本の読み聞かせと朗読の録音が好きになれば勝手に本を読む。
母親が首にヒモをかけてでも勉強しろと教材を示し、学習塾に連れていき、勉強しなさいと喚いても効果はない。
知能や論理の能力は家にあった蔵書をひとりで読み漁った小学校中学年頃までにすでに獲得していた。
本を読まない弟はいくら教育費をかけても手先が器用でも人付き合いが上手くても、どこまでいっても条件反射で生きるだけの知能水準にとどまるしかない。
そして、社会人になると、知的水準は便利なものであると同時に、水準の低い動物的条件反射タイプとは疎遠になるだけで、双方ともに生きる世界が別々になって一長一短である。
少なくとも受験用の母親の投資や努力はまったくの無駄であった。
基礎学力を身に付けるのに役に立ったものは、選びたい放題買いたい放題の書物とひとりで何時間でも読み続けられた家の2階の部屋。
強いて言えば成績優秀な親戚の存在で劣等感ゼロなDNA。
逆に弟の成績が悪いのが父親の影響だとしか考えられず、算盤や回転は運動神経で速いのだが、基礎学力や図形などはサッパリの彼らとは会話が成り立たないという意見はわたしも母も同じであった。
デリカシーがないナンセンスな彼らであった。
文章をまともに読めれば、理系は難しくない。理系をもてはやすのは、都合のよい社畜が欲しい日本の企業社会文化。
個人が幸福になるためには、文理ともにハイスコアで人間と基礎教養に深くなければとうてい無理なのだ。
そしてその知能を生かすも殺すも個人の心を大切にする健康からはじまる。
幼い頃はお絵描きや音楽で情操教育もやれるので、芸術系文系こそ本当に大切な基礎部分になる。