FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

名器の音の違いのホントウソ スーパースターたちの怠慢

f:id:FujiYama:20211005190353j:plainYouTubeでサルトリーと3000円の弓の弾き比べを見つけた。聴いてみるとしっかり表現力がある弓と貧相で耳障りなうるさい弓だった。私は貧相で耳障りなうるさい弓のほうがサルトリーだと判った。面白いのは二人のプロバイオリニストは3000円の弓をサルトリーだと思ったというのだ。
先日ストラディバリウスとモダンイタリーと初心者用をまったく判らなかったプロバイオリニスト二名の例を記事で取り上げたが、弓でも同じだった。
今年の7月に私がバイオリンを選んだときに、ストラディバリウス系を選んだが、営業スタッフはしっかり表現力がある芯のある音の楽器を勧めていた。そのスタッフも音大卒の弦楽器奏者だ。価格は同じだがまったく違う楽器の音。
堅実に練習して技術を磨けば、芯のある表現力のある楽器を選びたがるのは、どうやら同じ。
弾き手の嗜好なのである。
本当の表現力とされている名器たちは、実はやかましいド派手な、どちらかといえば線の細い、言い換えれば貧相な拒食症か過敏症の気がある。
倍音が豊かで透き通っているのは、重要な違いなのだが、プロバイオリニストたちが全然その違いを認識できないのは、音楽教育になにか問題がある。
突き詰めて言えば、名器の違いがわからないというのは、音楽がわからないということでもあるからだ。
想像の域だが多分音大で、エレキギター馬頭琴とは違う特権階級意識を植え付けられたのか、楽譜の読み方と歴史のお勉強をしていたのだろう。
それなら音の違いが判らなくても説明がつく。
直方体の音形とか、淡い音の出し方とか、歯切れよくとか、その演奏家としての技術は習得しているから、専門学校レベルだということになる。
人間や宗教についてまったくの素人にとってはそこになんら疑問も感じない。クラシック音楽というツールがその段階にとどまっているのは、とても残念なことだ。
コマーシャルのため、軍需政府のため、華僑のため、階級意識のため、つまりバイオリニストはあらゆる不幸の原泉に協力するだけの魔術師たちだ。
音楽の価値は本来そんなものではないはずだ。
ありのままに音の違いが判る音楽家を育成することができない日本人の大家たちは、ただ高価な(億単位の)楽器とそれ以外という二択の思考回路でほとんど片付けていることがわかる。
あるチャイコフスキーコンクール優勝者が日本文学に親しんでいるという話を聞いたが、その程度の浅い人間理解で満足してはならないと思う。
バイオリンについて、知れば知るほど、音楽が手のひらの上の小さな作品だということに気が付く。バイオリンの違いも楽曲作品の違いも、単なる作品の違い。深く広い世界としての音楽に没頭することも時期的にはあっても構わないが、人間という生き物は、音楽によって幸福にならない比率が圧倒的に多い。
幸福な気分と幸福は決定的に違う。
楽器による幸福と演奏による幸福と評価される幸福は、それぞれ別だから、各個人の幸福のためには、なにが補われるべきか?
指導者や大家たちは、音楽教育制度に具体的な改善策を財政的裏付けとともに明示する義務がある。
人類の未来を語れるか、無責任に私利私欲を貪るか?
それが問題なのである。
日本人は現状無責任そのものだから、業界が富裕層中心になる。広く国民の文化になるかどうかは、指導者と大家たちにかかっている。
エリートと共犯の国民搾取システムを文化と呼んでも、さすがに支持する人はごく限られてくる。
みんなそこまで能天気ではない。
犬も食わないクラシックになり、弾き手は食わないのはわからないからと言うが、わからないように仕向けておいて、わからないというのは、学歴差別とかハラスメントの類いである。
富裕層と神官の社会支配の有り様が人類史であまり変化しないのは、庶民大衆が愚かで努力しないからだからという理屈である。
しかし努力して技術を習得したバイオリニストたちこそが、判っていないという実例がほとんどである。一人前に演奏家としての活動をしているわからない人たちを、神のようにあがめるのは危険だし、スターをもてはやしても人類の不幸は今も深まるばかりだ。
希望を語れるのがエリートと富裕層と神官と幸福な気分に浸食された浮かれた若者くらいで、99%は絶望と闇に生きている。
幸福な気分と幸福の違いを明確に意識して、皆様一人一人が幸福になるように、美しい音楽に警戒して生きていくようにお願いをしたい。
ブランドと階級しかわからない極東アジア人の目を開くものは音楽そのものではない。文学や絵画だけでもない。
真理、真実は哲学と宗教と科学を基礎にした人間と人類に対する深い理解を抜きに掴めない。
極東人が自己を築くことができるように願っている。