FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

なつかしい作家たちのお墓

なにげに霊園の地図をアップにしていると、あ夏目漱石の墓とか、ほう江戸川乱歩の墓とかがある。
2人ともそこそこ読ませてもらったので、自転車でちょっと寄ってみる。
漱石雑司が谷霊園、乱歩は多摩霊園。
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非業の死か定業の死か、みなさん成功しているようでなかなか大変なもので、人の心の貧しい面をいかにこなすか苦心惨憺四苦八苦の連続ではないかと思う。
わたしの母は大学で森鴎外を少しかじったらしいが、小倉の石碑を眺めただけでは感慨というほどでもなかった。
有名になり成功することも大切なのだろうが、まともな感性がどんなだったか忘れてしまえば、まず人生が無意味に転じてしまう。
悲しいがそのほうが圧倒的に多いので、正気を保とうと試行錯誤するものの、その試行錯誤の余裕すらなくなってきて、まるで溺死寸前か酔狂の人と相成るのが世の常人の常。
まるでうまくいっていない人生ならなおさらのことである。
小さい頃からキリスト教の聖書が断片的に入ってきて、牧師さんや神父さんの説教と併せて、壮大な推理小説のように感じたり、歴史書のようにも感じられることがある。なんとも言えない知的な品を感じることもあるが、なにしろ分厚くて複雑なのでとても学びきれないままである。
文学は暗く、歴史は残虐。

わたしは詩ごころと温かみのある日蓮の述作、遺文に吸い寄せられるように没頭するようになった。
詩に嘘は赦されない。
譲歩とかぼかしの手法もまったくない。
構成も骨格も細部も要点も、微塵も外していない。譬喩が完璧。
なんとこれは宗教なはずだが、詩であり、文学であり、論文であり、手紙であり、訴状である。
文学の楽しさは、泥々した失敗や葛藤の中にあることが多いが、時代を超えた生命たちへの慈悲となんと爽快な潔さかと日蓮を尊崇することしきり。

なにが言いたかったのか?
筆をとる人格者の墓参に、釈尊の師匠、宇宙の神日蓮をおいてほかの誰の墓参りをしているのか?
日本のキリスト者が決まり文句でいうフレーズが浮かんできて苦笑する。
あなたをおいて誰のところにいきましょう。
なつかしさに寄っただけなのだが、自分に突っ込みをいれておきたくなった。
文学は人間に思考や感性を触発するけれども、われわれに解決や具体的方策はなにも提示してくれない。そんな人がいて、そんな風に行動したのだなというだけである。
愚かしい人間の葛藤と失敗に浸ろうという暇な人は楽しめるが、そんなもの洒落にならないのも実際のところ。
事実は小説よりも奇なり、といって、みんな卒業していくのが自然で合理的。
真理に向かって気づきを与えるキリストはなかなかの知恵ものだし、真理そのものを直截的直接的に教える日蓮は奇跡の佛で、彼らにインスピレーションをもらった人たちはたくさん。
人間や自然の幸福感を最大化する知恵も遺している。
宗教ばなれの時代の、新自由主義体制のなかで、墓参とか聖人とか、心の大切さが際立って感じられるのだが、こういう感性は深いほうがより味わいのある人生になると思う。