FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

200万人か5千万人か UNRWA解体か抜本改革か 戦争と難民 平和と流民棄民

ガザ地区攻撃はホロコーストなのか?

大量殺戮はもう日本でもはじまっている。

日本政府を正しく非難する人達は少ない。

日本のこれからの人口減少を考えるならば、合理的理由がないのだから日本でもホロコーストは起きつつあることになる。

コロナで約500万人亡くなり、ウイルスは勝手に蔓延したわけではないが、誰も原因究明はしない。生物兵器の一種とみなしうるはずだ。

軍事力なら、収容所なら、経済虐待なら、放置なら、生物兵器なら、様々な手段で行われるあらゆるホロコースト

それならば1人や2人なら殺害してもよいのか?いや100人までならよいのか?1000人までなら?

人数の問題ではなく、防衛戦争、正当防衛が成立するかどうかが重要なのでないか?

200万人だから悪いわけではない。

200万人だから良いわけでもない。

好ましからざる事態であれ、防衛戦争は防衛戦争なのではなかろうか?

平和のためには、武装勢力武装解除テロ支援国家政権を倒す必要があるのだが、テロ実行部隊例えばがん細胞を保存して安心して長生きしようとするのか?

ブラジル大統領らのナチスとの比較は悪平等

そこが個人的に私には理解できない。

どう考えると悪事を野放しにしてよいと納得できるのかがわからない。

防衛戦争のほうがはるかにマシなように思う。

ハマス武装解除と無条件降伏(人質全員開放)しかない状況で、狂気の戦闘を継続しつつ人権擁護を主張するのだから、ノーマルには理解できない。

彼らは平和を求めているのではなくて、自爆したがっているし、自爆させたがっているのだ。

宗教の間違いは重病、毒気深入と釈迦天台伝教日蓮は明確に言っている。

泥酔状態と例えてもいる。

ハマスも日本政府も危険な中毒性患者のようなもので、確認しておくが武装している。

イスラエルが難民を逃さないのは、ハマスと一体化しているからなのではないかと想像するが、ちょうど第二次世界大戦の日本国民が臣民であったようにアラーに従わざるを得ないというところをハマスも悪用しているのではないか?

もしそうならば、日本全土への空爆と同じようにガザ地区攻撃は理論的には完全に正当化できることになる。

国際社会正義を再確認するべき時なのではないか?

今こそルールを平和のために使うべき時であり、人権擁護をテロ支援のために使うべきではないと考えることができるのではないか。

国際司法裁判所も、テロや奇襲攻撃までもを是認できないはずだ。

ハマスのもとの市民に対する攻撃は主たる目的ではなく、どこまでもハマスせん滅のためでしかないから過剰防衛や人道法違反とまでは言えないのではないか?

国際司法裁判所イスラエルは主張しないそうで、イスラエルの主権から言えば、そもそも訴えの違法性があるから無視できるという解釈だろう。

人類の普遍的価値観に迫る戦争や難民問題。

平和なようで、日本国内にも流民難民は昔からいる。

他人事ではない。

時間をつくってでも思索するべきテーマだ。

人権は悪事の盾ではない(人権カオスは無秩序)

よく人権という単語は耳にするが、ずいぶん使い古されてきて意味合いが統一されなくなった。

私は専門家ではないが、自己の主張のため、私利私欲のため、他人の迷惑をかえりみない人権とはなんだと疑問を感じることがある。

善人ばかりではないから、悪人の人権もあって、悪意のない障害者高齢者にも人権がある。

つまり条例法律で悪事は取締り捜査や調査が必須でセットなのだが、そこは現代にかなりの問題がある。

表面化する悪事は氷山の一角だし、むしろ捜査機関や行政が動かないことを見越している悪人が増殖している。

商船を攻撃したイスラム系の若者たちも人権を主張する。

日本の反社ヤクザ系新興カルト創価も人権を主張する。

要するに、善事と悪事の平等主義で悪事の権利を認めれば、世界中が悪事で無秩序になり、善人が誰も居なくなる。

世界はカネと権力だけのユダヤ帝国主義と反社の対立に終始することになる。

日本国内も同じだ。

そこで倫理とか個人の資質は期待できない。

人間ほど悪知恵の働く生き物はない。

平等や人権という単語は健全な機会均等のみに限定してしまうべきだ。

なんでもかんでも自由平等に人権がみんなにあるならば、犯罪組織やカルトはやりたい放題で、世界なら武装勢力イスラム系がやりたい放題。

国連の求心力低下の原因はそこからなのである。

パレスチナ難民を救済するならば、自爆やテロ奇襲などを完全に制圧排除したうえでの支援でなければ、世界の賛同は得られない。

ガザ地区からは漁船で密航しなければ逃げられなかったという話も、逃げるための期間は充分にあったし、土地に拘る状況と狂信的宗教の天秤も考慮すれば、難民が再度難民になるという苦難は気の毒だが、死を選ぶのはやはり狂気だ。

日本人にも日蓮の「死は一定」という言葉を曲解して危険な自爆攻撃や破滅的選択に使う宗教家たちがずっといるように、世界中に人権や宗教をも悪用して他者を攻撃する勢力が散在している。

難民支援は非武装化を第一条件にするべきだ。

難民収容施設に武器弾薬は必要ない。

日本の政府や公益団体や調査研究組織などが、いかに反社を優遇してきたか、その罪深さを考える人達はいないのだろうか?

人権アレルギーの源は反社優遇だ。

国連主義で世界秩序を安定化させるためにも、そこを明確に差別化してから、すべての生命の尊厳を護るべく人権擁護を推進して欲しい。

国連組織や個人の善意からどれほどイスラム系を支援してもユダヤキリスト系にテロ奇襲しかやらないのだと世界各国と多くの人々は結果的不公正な支援に見切りをつけたかのように見える。

善人と善人の平等は幸福。

善人と悪人の平等は不幸。

シンプルに幸福のための基本的ルールが有効化されるか無効化されるかの結果重大性を考慮するかどうかである。

差異を認める瞬間、優劣、いずれかの優先度も認めなければ無秩序と混乱で戦乱と難民を生む。

人権は人間の賢さが条件であり、あまり喩えとしてはうまくないが悪人や売春婦を自分で選択するからには、同時にまともではない死を覚悟するわけであり、ほとんどの場合それが狂気だと自覚するべきだ。SNSも危ない場合が多く賢明なツールではない。

犯罪をやれば私権は制限されるレベルの知恵くらいは人間ならば持っていてもよいが、それすらわからない人類の水準低下はかなり深刻だ。

そういう人達がテロ実行権、犯罪遂行権隠蔽権などを本気で信じている。

18thfeb2024バイオリンレッスン5休

第5回。深謝。今日はクロイツェルの4番とモーツァルト協奏曲の一部を題材にして、引き続き趣味と専門家の技術の差、音楽表現の違いを教えて頂いている。

クロイツェル4番のフレーズ毎の終わりの二分音符にゆっくりのビブラートをかけることができるか?

速い動きの後、瞬時にゆっくりモード。

まず趣味の素人からはほぼ不可能、もし5ポジション以上ならほとんど無理な注文。レッスン後リラックスしてかろうじて可。

モーツァルトの特徴を細かに踏まえて弾けるかどうかを試されて、さっぱり粗めでのっぺりの貧弱な音楽表現を自覚させられる。

途中で其の場から消えてしまいそうなほどの出来の悪さ。

しかも良い先生は、わずかな音程のズレを聴き逃さず指摘くださる。

ほぼ無理な注文の箇所が早速1楽章後半で出てくる。2回もゆっくり目に弾き直してカツガツゆっくりビブラートをかけることがかなう。

絶望的な技術(音楽表現力)の差を埋めるために、これから少しずつ音楽をリラックスして楽しむことに専念したい。

昔のリラックスを取り戻すとおそらく、自然で自由なビブラートが8割がたできる。昔綺麗にできていた1指での半音グリッサンドなどで試すとわかる。

いちおうビブラートの練習には取組むものの、なぜ身体全体がガチガチになっているのか、そのほうが重要。

2014年に東京ではじめての講師にみてもらった時の第一声は「身体に力が入っていないですね」、だった。

東京で約10年でここまでガチガチに変化しきって、9年前から既にガチガチになりつつあったものを修正出来なかった。

年数から言えば、死後硬直ではないが、最近は日常和むことがほんの僅かに増えてきているから、或いは改善するかも知れない。

生真面目に練習することも大切なのかも知れないが、むしろ、違うところの問題と時間の経過の中で改善するだろうと思う。

まだまだお聞き苦しいので先生には大変申し訳無いと思いながら、大中小の目標を明確化して設定してくださる有り難さに感激する。

すぐに改善できない課題をゆったり(今日明日で慌てふためかず)取り組めることが1番の機会だ。

有難い機会はほとんど命懸け。

カルト文化や宗教には御用心あれ。

バイオリンの講師にも(たとえクラシックでも)悪質な者やまともに教えないで嫌がらせ半分に突付くだけの者もいるから、以前にも書いたが趣味の皆様はただのカモにされないように願っている。

(いくつかのスケジュールが厳しくなり、しばらくレッスンブログはお休みすることにする)

ロケットの成功 衛星は必須

国産ロケットがようやく打ち上げに成功して、50億円以上の経費はなんとか前向きに見ることができる要素ができた。

勿論、まぐれでは商用化実用化できないから、さらに確実性を上げていく必要がある。

夢のために貴重な人材や莫大な予算を爆発不発させるのには限度があるから、関係者は責任をもって成功させる軌道にのせていただきたい。

失敗が多すぎて大きすぎるのは、諸外国からの評価を落とすだけではない国内問題でもある。

緊縮財政でなければ、それほどの影響はでないが、日本の政治はもはや凄惨をきわめているから、本当に真剣に実用化して欲しいと願っている。

バイオリンレッスン覚書13thfeb2024

クロイツェルの復習で4番はアップスタカート。手首だけではなく指からやわらかく使う練習。私の場合フランス式の持ち方のほうがちょうどよく弦に噛ませやすい。ちょうどよくは1番確実で音が美しいという意味。

モーツァルトのバイオリン協奏曲第3番の2楽章は、他の協奏曲もそうだが、か細い音では表現できないし、弓の毛を半分以上載せて表現したい。

ピアニシモで弾くと、どうしても毛の載せる量を減らしてしまいがちで、とても難しい。

でも全部載せて調節するほうがはるかに楽にピアニシモが出せる。

それから変な箇所でアクセントがつくと、途端にモーツァルトらしくない台無しな感じがするから要注意だ。

さりとて全体をのっぺり流すのではなく、ダイナミズム、長調フレーズ短調フレーズ、符点音符の違いを、拍の終わりをきちんと出すことで表現豊かに演奏できたらよい。短調フレーズは表現を抑制する。メゾフォルテにならないようピアニシモを維持して哀しげにたんたんと流すとコントラストを表現できて分かり易い。

結局、それもこれも数年間いままで半端なドイツ式の弓の持ち方で悪戦苦闘してきて、なんだか毛を全部載せするのが難しい。ただでさえ、技術が不足してきているので、フランス式は変えてはいけなかった。

これをきちんと戻す、フランス式を覚えなおすのに、どれくらい労力が必要かわからないほど現在は不器用な私なのである。

レッスンでは、モーツァルトの表現の豊かさを感じとることが喜びで、それをいざ完璧に弾くのは多少難しいから、すごく向上することの証でもある。

聴いて素晴らしいだけでは満足できず、弾いて素晴らしいを向上させ完璧に持っていきたいのがノーマルだと思っている。

しかしそれは自己の貧弱な現状と絶望的レベルと向き合うことでもあり、多少なり複雑な心境だ。

ぜひアマチュアの人達皆様もそういう体験を重ねて欲しいなと思ってしまったが。。。

 

 

身の丈にあったもの???軍拡競争時代はなにをもたらすか

よく個人の身の丈にあったものをと用いられるが、ただの身分階級差別の助長にしかならない。

組織としての身の丈も規模だけでは決まらず格式だけでは決められず、自衛隊はもはや軍事力になりつつあるから、そこも身の丈かどうかの問題ではない。

世界中軍拡競争時代に突入して韓国が手広く商売に成功していて、日本が黙って指を咥えて眺めているのかという話も一方的軍需産業偏向の立場からだ。

軍事力は必要なのだが、質量の問題と武器輸出の話も不用意にムードと流行でやるものではない。

ここまでトラックや兵器や半導体が世界中の隅々まで存在する時代の基準はなんであろうか?

資本主義と自由主義が詐欺的なポピュリズムを蔓延させてきた結果、カネさえ儲かれば、後は野となれ山となれで世界はカオスになり不安定化してきている。

少し前にリビアの独裁者を報じる映像で印象的だったのは、武装組織がトヨタのトラックで悪事を働くもので、近年なら民生用ドローンが兵器に悪用されていることが目立つ。

ましてや武器輸出なんて規制して当然すぎる。

規制しても抜け穴はあるのだから、まず民生用ハイテク商品と技術者たちの囲い込みが必要で、選挙があるからと民主主義だけで第三国を信用しないことである。

やはり、基本的人権擁護をベースに据えて、教育就職の機会均等と勤労者の経営参画ができている民主的国家地域の連帯をコアにすべきだ。

残念ながら、現状日本はコアには入れない。

アメリカですらギリギリの民主主義。民主主義風のポピュリズムと私利私欲に陥るとトランプのように難しいことになる。

日本の身の丈は政権がGDP縮小方向で防衛費だけ倍増しているのだから、中期的に実質は5倍程度の爆上げ。

世界中に株価売り上げのためにハイテク商品と兵器を流通させてテロ支援国家と侵略行為を後押しする時代になって、軍事費負担増は自殺行為だ。

そもそも軍事転用可能なものは慎重に、兵器は技術も部品も技術者たちも含めて慎重さに慎重さを重ねる必要性がある。

抑止力として機能する軍事力という面と、大国の暴虐(強大な軍事力)に対する中小国家国民の負担増にどこまで人間社会は耐えられるのか?

すでにポピュリズムで規律も抑制もなく私利私欲に走っている人類は果たして人間と言えるのか?

これからは、人間の善性を想起させ、賢明な知性を思い出し、大国間バランスをとれるリーダーたちが必須なのだ。

権利の平等なんて悪平等もある。

みんな同じなんてありえない。水準の低下をもたらす。

大中小国、大人子供、男女その他、それぞれの差異は役割と使命だ。

民主的国家へ進化するべく基本的人権擁護を日常的不断の努力として普及させることと、軍拡競争は背反しているかのようだ。

しかし、この時代でも同じように基本的人権擁護を意識的最優先にやるべきだ。

自衛隊の戦闘力以前に訓練文化が未開性をまだ持っている。米軍との共同訓練だけでは追いつかない。古い日本的な軍隊教育が明治維新後を指していて、大戦期に狂気の素人軍隊を形成したことを深く反省して文化的な問題を改善するべきだ。

基本的人権擁護。

この一点を踏まえずして、何をやっても日本人は進化しない。

ただ繰り返すだけでは愚かである。

ポピュリズム悪平等主義は表裏一体でこれから紛争の危険性はさらに高まる。

水準低下の地獄・負のスパイラルの沼に人類を誘導しないためには、ユダヤキリスト教文化の高度な水準を学び堅持することだ。

 

今頃コロナ流行2020以降はじめての検査の人なんている?

コロナの第一号は2019年12月らしいが、1度も検査もせずワクチンもうたなかった。

濃厚接触しても感染せず、症状もでないし、高齢者と障害者を虐待するために検査ワクチンと騒いでいるのだろうと思った。

実際上ヒドイ虐待が起きたとのことだ。

年末年始、どうやら風邪なのかと思う咳と全身の痛みを感じて、こんなことは10年以上なかったような気がして、とうとう検査を受けた。鼻に綿棒を挿し込むと完了、コロナは陰性で予想通りインフルエンザA陽性だった。熱がまったくでないこの症状はAと報じられていた。

しかし、同級生がたしか検査を受けていないと2年位前に言っていたが、彼も珍しい部類だろう。

日蓮正宗の人達は馬鹿真面目にいちいちワクチン接種していて、組織的な都合で権力に媚びる歴史的な習性なのか、私には潔く見えなかったことを憶えている。

医師たちも危険だとかなり主張していたことをこのブログでも何度か取り上げた。

ワクチンなんて打つのか?誰が?

むしろ、題とは逆の想いである。

薬は本当にどうしても必要なものだけにしませう。

過剰処方文化は医師や国家官僚に科学的思考つまり理性がないことを示している。

出入国管理を別にすると、東アジアに対策やワクチンなんてまったく不要だったのだ。

損するのは一般国民。

愚かな日本民族