いつからか、死に方より生き方だと言う人が増えてきて、それはそれでいくらか理解できる。
死に方を大切にするあまり、人生を捨てて我慢して奴隷のような生活を強いられる人が多いからだ。
死に方に宗教的な意味があり、死に方さえよければ悪いことばかりでも構わないそうだ。
そんなものは要らないと、生き方の方が大切だと言うのを理解することは容易だ。
宗教的に神や仏のため、神や仏の心に沿って、すべてを耐え忍ぶことができるのは、ある面では強力なパワーであり、その結果、大金や財産を作ったり、出世して事業ができたり、そういうプラス面はしかし、長寿が前提であることが多い。
一般大衆としては、今日明日の楽しみのほうが優先度が高くて、楽しく明るく生き方を選んで幸福に人生を過ごしたい。
どちらかと言えば、近く短いスパンで生き方を重視し、遠く長い将来で死に方を重視することが多い。
だから、明確なのは死に方を重視するほうが、広く深く大きなことを実現する確率が高い。
生き方を重視して蓄積がない多くの大衆は、私欲で浅はかに考えて大したことはできない。
まずできるだけ早く突き詰めて深く広く大きく世界観を形成して、それから死に方と生き方に共通項や整合点を見出し、意義深い人生になるように日々を重ねることが肝要だ。
若い人たちの人気をとって、生き方のほうが大切だと説くのは、彼ら若者の人生を搾取して浪費させる魂胆があるのだ。
一見、社会正義のようで、その実、若者の未来や幸福などまったく考えていない。
社会やマスコミには虚構の無責任な楽観主義が蔓延している。
少し考えるとわかるのは、死に方か、生き方か、の二択ではない。
生き方も死に方も両方とも大切にするのが賢明。
人間の姿かたちをして学ぶ機会があるワンチャンスを掴み取ることができるようにと願うが、実際は、それほど多くの人が学ぶ機会を掴めない。
献金宗教や劣悪文化や政治制度などで、学ぶ機会は平等ではない。
不平等なのに死に方を重視させるのは間違っている。
不平等なのに生き方をと刹那の快楽に走らせるのも間違っている。
悪意と呪いと魂胆が笑顔ですり寄ってくる。
人生の道中にお気をつけて。