FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

きれやすい人をどう見るか バイオリンの先生も

きれやすい人がいるのは誰でも見聞きして知っている。

その人が何に対してきれているのか、些細な事できれることはないと周囲が思う場合があるものの、きれるのだから相当な理由がある。

きれる人は相手の価値観を否定するためにきれているわけではない。

相手を受け入れられないわけでもない。

本当に受け入れられないならば関係性を断つ。

しかし簡単に関係性を断つことができない場合には、両者のズレを調整する必要がある。

価値観や経験や出自や専門などの個性の違いは当然にあるわけだから、一方の都合だけでキレることが好ましくないのと同時に、キレられても無視することは好ましくない。

それが多数か独りかどうかの問題でもない。

たとえ一人の意見であっても、尊重して調整する必要がある。

つまりキレるのは問題提起の意義を持っているし、抗議の場合もあるし、建設的な議論を呼びかける場合もある。逆ギレは反論の意味合いとして評価すべきだ。

ただ誰かがキレているというのは、そもそもそのキレている人を孤立させて無視している。

無視する側も一方の都合だけであることに変わりはない。

見方を変えるとキレている人を悪者と評価したり人格的問題者として無視することはイジメにつながる。

真相が障碍者虐待であるならば恥ずべきである。

一方的にキレるだけで目下を悩ませるなという意見があるが、目下は目上に教えを乞う立場である。

何にキレていて、改善する合理的な理由をまず知ることから、気が付くことからだ。

時にはキレる側のミスでキレているかもしれないし、もしかしたらキレている理由を修正できるかもしれない。

バイオリンのレッスンを受けていると、ある意味先生はいつも些細なことにキレている怖い人である。

しかし、そこが学びのツボだらけでありがたいのである。

そんなもの週に一回のレッスンの間だけならありがたいが、毎日ならかなわないという人もいるだろう。ちなみに私は週2~3レッスンくらいが適度かなと思っている。

それはさておき、ヒステリーや暴力さえなければ、キレる人には何かしらの教養があることが多い。こだわりは過剰でなければ教養そのものであり、教養があればこだわってキレないほうがむしろおかしい。

バイオリンを習うだけではなくて、何かの道で学ぶ人たちはみんなそこを楽しむ人たちである。

相手を許せないのではなくて、建設的な変化のため、あるいは相手に伸びるところがあるからキレてよいのである。

態度として相手を苦しめないキレ方を心がけるのが大人のマナーであるが、キレないというのは、相手の可能性を潰しているし、キレられて無視している人はさっさと道半ばで道を離れるどうでもよい生徒ということだ。会社なら辞めたほうが良い。

それが現実なのだ。

私はサドマゾではないからイジメはするのもされるのも嫌いだが、人を見下していない限りはキレるのはありだと思う。

人間の持っている慈悲や愛情でそれぞれが時々キレるくらいがよい人間関係や師弟関係を維持するうえで健全なのではないかと思う。

その意味でも、日本人が絶対的に上下関係ばかりに気を遣う民族性であることはとても気の毒だと思う。アフリカ人やアラブ人やインド人などがそういう未開の古代人の規範に縛られて教養が低いことが多いからだ。

人間が幸福になるために多くの知識は役に立つが、細かいところよりもむしろ全般的な教養がいかに大切なのか、答えがそこにある。