ピアノや平均律を否定することはないが、管弦楽、わたしはバイオリンで純正律でないと悪いことが判明した。
自分でなにが左手で困っていたのか、しばらく認識できない時期があった。
ピアノやチューナーで音程チェックをするように講師にすすめられたことが、結局の所間違いなくロスと不調の原因になった。
純正律と平均律の違いを明確に意識してチューナーを使うのは正しい練習になるが、ピアノと同じチューナーの中央に全部合わせると大変なことになる。
最初に不調の決定的なものを感じたのは、チゴイネルワイゼンの後半のA-Durで指が豆らず弓まで暴れ出し、何が原因かわからずドツボにはまる状態が何年も続く。
一昨年、改善の兆しかとシュラデクで変化を感じたが糠喜びに終わる。
何気なく弾けていたものが弾けなくなるのは苦痛だった。
チャールダーシュの後半も速弾きを求められるが、中途半端に違和感があって危なげそのもの。
そりゃあそうで、平均律では指の間隔の感覚が違う。音程も違うが、指の間隔が変わると指はマメらない。動かない。もつれる。演奏は転ぶ。
たくさんの知識も計算した音のセントも、すべて無駄にしていたわけで、アホなのか、バイオリン演奏が平均律では不可能なことをわかっていなかったのだろう。(感覚的に可能な新人類の一群もいる)
純正律で最近音を取り直して気を取り直している。
何も難しくない。
速弾きは左手の感覚と連動するから、左手の間隔の感覚をきちんとすれば、アホほど速弾きができるように回復しつつある。
木嶋真優さんのトンデモない速弾きを意識している。
サクサクシコシコ爽快な音の響き。
たくさんの歓喜雀躍に恵まれて、神仏に感謝すべきか、我が心の宇宙の莫大な共鳴弦の響きの美しさは永遠である。
面白くもない過酷な絶望的日常と心の幸福の対比がエグい。
心の幸福は心の痛み具合の程度が大きいほど大きい。
過去に恵まれていた時期に感じた幸福感を凌駕するのは、宇宙の摂理。
深い絶望を沈むほうに操縦桿を動かす人と、その深さだけ上昇下降の幅を楽しむ人と、その基底を日蓮は本因妙と呼んだが、人さまざまなのだろう。
上昇志向を逆手に取って巨額搾取する輩も大都市には憑物。
わたしの心はズタボロだが、新鮮な管弦楽の音響に感動し続ける習性があり、自分のバイオリンの素朴な音の美しさにうっとりする心が変わらない。
産まれた頃にはまだ人間は自分が地獄の住人だと自覚できない。
先に至高の喜びである純正律管弦楽を楽しんでいたことが、苦難に直面した過去現在未来のわたしを導く道標だった。
地獄も天国も仏国土も、全部覚知したら、神の国が近づくのは道理だろう。
いつまで生きているかわからないが、たった一つの方向にコンマ1ミリずつ確かに進んでいる。
進む幅、速度はそれほど問題ではない。
ただ進んだか後ずさりしたかの2つ。
止まった状態、聞こえの良い維持という言葉をとても疑わしく感じる今日このごろだ。
敢えて純正律は絶対だと叫んで練習しなければ、わたしの回復はない。