FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

不協和音を恐れる未開人達 音楽の真価

非和声音という和声(和音)とずれたり外れたりしている音がある。

それはけしからんというのは愚かで無恥だ。

とても美しい世界を写し出すために用いる音がすべて和声の構成音であるとは限らない。半々程度でやや構成音が多い時代から、その構成比率は変化しているように感じる。

専門家の分類を見てみよう。

①   刺繍音(ししゅうおん)

②   経過音(けいかおん)

③   倚音(いおん)

④   逸音(いつおん)

⑤   掛留音(けいりゅうおん)

⑥   先取音(せんしゅおん)

⑦   保続音(ほぞくおん)

専門家によると、非和声音の多くは、一時的に緊張を与えることで音楽を豊かにするので、その後、和音の構成音に解決することが多いです。(例外もあります。)

とされている。

都市で異端者や部外者、価値観が違う人達、さまざまに理解できない人達で溢れているように感じるのは、ある程度個人的に処理しきれないから仕方ない。

さらに分類をひとつひとつ見てみよう。

①   刺繍音(ししゅうおん)

和声構成音の前後に上下するように、まさに刺繍と同じようにある。なければぽつんと寂しく味気ない。世代や立場などつきまとう関係は前向きで意欲的ならば美しい人間関係模様だ。

②   経過音(けいかおん)

構成音から構成音へ向かう架け橋。明るい和声へ向かうことが多いだろうが、そうとも限らない。中間的つなぎとして目くじらを立てる必要はない。どっちへ向かっているのかベクトルを見る。みきわめは社会的な正解と政治的要求と地域的解答などの反目を修正するのに役立つ。

 

③   倚音(いおん)

④   逸音(いつおん)

という二つの分類は正直難しい。まだまだ私には完全に分類できない。

字の意味では倚というのはかたよる・たのむ・たよりにする・よる・よりかかる・起因する、などとなっているから、逸れるという字と同じようにあまり良い印象ばかりではない。倚音ならまだしも逸音は困るという感じなのかもしれないが、どちらも半音か全音つまり五線では一音隣なので、目の前の弱者との絡みの上手さ、麺とソースという感じになろうかと思う。

⑤   掛留音(けいりゅうおん)

小学校から中学校に進学したり、チームを移籍したり、様々な調和からの移動の際に、以前の癖が残っていて苦笑することがあります。転職一年目など内的に二つのルールが重複していますが音なのであけっぴろげ。あの人の方言きついなとか、あの人の方言魅力的だなとかいう現場監督者の使い方ひとつでずいぶんとその役割や値打ちが変わるように、作曲家の筆ひとつであり、行政の裁量の適正さひとつであり、人生の変遷を感じた人でなくても成人するころには気が付く視点であろう。

⑥   先取音(せんしゅおん)

予告そのもので、しかも直前なので誘導力がすごい。曲の最後でよく出ているらしく、がんのステージ4とか危篤ですからお越しくださいとかいう悲劇的なものも含まれるが、そこで一族が調和できるかどうか別で、音楽の場合は昇天、帰天、極楽浄土などの完全調和的結末を美しく表現することが多いからまだよい。ただし浄土はすべての人間を受け入れない。

未開人というのは磔、拷問死、虐殺死、過労死など残虐死の結末がそれなりに多いから、先取音の前の準備のほうが重要で、もはや手遅れである。

曲中ならよくよく言っておきたい強調的な表現になる。

⑦   保続音(ほぞくおん)

和声の構成音で最低音である非和声音というもっとも影響力が見えづらい非和声音である。

土壌とか文化とかの中で、あるいはその上で生活している我々が大地や社会規範を踏まえつつ自由に生活しているが、その土壌や規範のようなもので、仁をよく理解していれば支障がでないが、そうでなければうまくいかないところに似ている。汚染された土壌や旧態依然の残虐な掟に生きている日本人の多くがこの保続音、君が代によって安心しつつ虐待虐殺を通奏低音として改善しようとすらしないので、どれほど努力して美しく旋律を奏でても、そこには無常や殺伐とした音楽が生じやすい。

突き詰めれば純然たる日本人に音楽は成立しないのかもしれない。

こうして主要な7つの非和声音をみてくると、どこをどう分析して対策を練るべきかという思考や企図のラインがそれぞれで浮かぶのではないかと思う。

人間が技術を虐殺や戦争のために使うのは、この記事の視点が欠けているからであり、音楽的ではないと思う。

正しく音楽的であるという場合に、万般の哲学、宗教、倫理から導き出される人道的見地を欠いた差別と排除のための音楽技術の使い方は人類の一員として忌避すべきおぞましさそのものである。

不協和音と言っても非和声音と言っても、必ずしも否定的に見たり、害毒として忌避してはならない。

もし害毒に見えた場合においても、その方向性こそが重要であり、性質を和声と和声の狭間で変容させることが可能であり、その配置や誘導を間違えないことのほうがはるかに重要だということを理解しなければならない。

毒性や浄化の起点を見極めていけば、どんな異端や問題であれ対策はあるはずだ。

作曲家たちは半分きまぐれなのかと思うことが多いが、解析すればやはり計算されたものが多々あるのだという結論に達することが相当あるはずで、扱いに困る音符は作曲過程で自分では置いていないから、むしろその困るような音符を楽しんで展開させるほうが才能であろう。

困ったなというセリフを楽しんで言えなければ、それはまだまだ自己統制技術を獲得しきれていない。

どうしようかな?

どうしたらうまくいくかな?と共生に向かう元気がなくなった時、虐殺の発想に走る病的な人間に転落する。

古今東西である。

日本人が和を貴ぶという程度がいかに低く、和のバリエーションと移動は不協和音からもっとも美しく導かれ、その時系列の文化的豊かさに目覚めるためにも、音楽というのが無意識で捉えてはならない大切な技術なのだとわかる。

快楽としての音楽に慣れ切っている現代人にとっては不快で異端で問題がある記事だと言われることもあるだろうが、人類の進化という目線くらいは持っていなければやはり恥ずかしいのではないだろうか。