信じる者は救われる。
そんな言葉を信じる人は少数派。
なにかを狙って近づいてくるすべての人たちを疑う。
懐疑主義者も悲しいかな人を疑うだけでなく事実を疑う習性まである。
事件・事故のデータも人を信じることを妨げる。
被害妄想はありふれて、被害の想定だと科学的に疑う習性が蔓延している。
ここまでくると、家庭や親族にも信頼関係が確かではなくなっている割合が高くなる。
かろうじてのやりくりやこなしのための最小限の信頼関係で目先の契約履行パフォーマンス。
極めつけは、所持金やカード限度額で信頼する。
人間が一番危険な動物だからこそ。
職業や身分も保証にならない。
後は野となれ山となれ。
さらに人間不信が固まる。
書き出しから薄々予想した人もいるだろうが、要するに宗教は人間不信を促進する。
神や仏を信じる換わりに人を疑え。
親族や人を見下すことすらためらわずに疑わせて献金や布施を巻き上げる。
罪を許し、罪業を消滅させてくれるなら、何をやっても許されるとばかりに、どんな宗教でもカルト信者化してしまう。
虐待も戦争も凶悪犯罪も取り返しのつかない問題の後ろ楯こそ宗教聖職者たちではないか?
ノーマルに他人を信じて助け合うのなら、宗教は葬儀以外不要となる。
子供を育てる上の用心としては人間不信なんて健全なる用心、教養教育に過ぎない。
問題は大人が撃ち合いやり合いだけになることで、誰の何を信じたら双方被害を食い止められるかと思案する。
国家宗教単位で相手が悪いから戦争して相手を殺せると主張しあう。
相手のよいところが見えなくなると、それはそもそも疑いからで、あとは悲惨な悲劇しかない。
宗教は教養や修身、内心のものとして有用性があり、それ以上の政治的宗教では有害そのもの。
悪事を野放しにして自由と正義を唱え、反省を忘れて相手を批難するのは建設的ではない。
悪事の定義を見定めるためには、人間が人間として生きること能う社会環境が必要だ。
ウイルスを撒き散らしているのは、貧困層を放置し、身内と株価だけに執着しているあさましい欲望の亡者たちである。
一番人間を信じられないのは、富裕でぬるま湯の甘い生活を最優先にする官僚や特権階級なのだ。
ちょうどよい適正値を日本人の3%だけに実現するようにして、残りは打ち合い殺しあい奪い合いだけの状況を政治財政上仕組んでおく。
みなさんの不自由や不幸こそ神道存続の手段だから、それでよいのである。
世界ではユダヤ勢力の収益のために、人間不信は常識的世界基準だ。
あほな人類人間がどうなろうとわたしの責任ではない。
人間はいくら死んでも増えるから不信や憎悪を煽って戦争や虐殺させれば儲かる。
人類はそういう退化の理由付けを採用している一握りの宗教聖職者とその周辺の勢力のために衰退している。
犠牲者が1人でも少なくなるように願うが、指導者たちは犠牲者が1人でも多くなれば功績ある功労者なのだそうだ。