FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

本番まであと14日ピアノ合わせまであと6日

音楽や霊的体験はどこにでもあるようで意識していなければ遠ざかる。

戦地の報道に向かう記者が「これから文明を背にして戦場となっている都市◯◯へ入ります」というように、音楽と霊的体験に背を向けることがありふれている。

ここでいう音楽はクラシックや伝統音楽と教育上の音楽で、わたしの場合キリスト教教会、クラシックバイオリンのレッスン、クラシックコンサートなどをわざわざ見聞体験してこそ理解会得しうるものだと思う。

辿ってみると、パリのノートルダム大聖堂やスペインの修道院ウィーン少年合唱団などの霊的体験と重なりあう世界がそこにある。今はYouTubeでその大聖堂や修道院の雰囲気をうかがい知ることができる。もちろん日本に教会はあってパイプオルガンや合唱などがあり、法王ゆかりの品物もあったりする。

モーツァルトの手紙などを中学生のころ読んでみたが、彼の生活はいちおうは職業がうまくいくようにという思いと完全な下品さが溢れていて、妻帯世俗、どこからあの美しい音楽が出てきたのかわからないほどだが、やはりバイオリンとピアノが達者な人だったから、音楽全般を一通りできて父親が音楽をよく知っていたこともあるのだろう。

まだ当時は教会からフリーメーソン禁止令は出ていなかったのか、教会文化の世界でその影響はそれほど大きいように見えない。バッハみたいに教会そのものにどっぷりではない自由度を感じる。

そのモーツァルトの若い頃の作品とされているバイオリン協奏曲は20代前半までの旅と音楽経験や感性をあらわしているようで好きな曲のひとつ。

偶然手に入れたケッヘル番号の1桁から2桁のもののソナタ楽譜を見ると、幼児のものらしくシンプルなのに面白いから、レオポルド父はよほど教育がうまかったのだろうと思う。

わめいたり暴力をふるうとか物を壊すような危険で狂暴なものは影も形も見えないのだが本当のところはそういうものは人には見せないだけという陰惨な中世的背景がもしかするとそこにはあったのかもしれない。そういうことがない父子や人間関係がもちろん幸せに思えるものだが、本人がそこを何と言い遺したのかわたしには不勉強でわからない。

一面は別にして、やはりのびのびと押さえどころは楽しくおぼえさせる。

おぼえると楽しいから病みつきになって才能を発揮するし、可愛い若者なら好意的に迎えられることも多い。

文明と獣剥き出しの対称的方向性、平和と戦争の分かれ目、呪縛拘束と自由。

霊感にはそういう明確なたてわけがある。

だからこそモーツァルトの私生活と音楽の違いにみんな驚くのだろう。

作品が次第に複雑で高度な豊さを表現するようになる前の若い頃の作品は、弾くほうも弾くことに集中しやすいシンプルさがあって安心。

シンプルな基礎力の不足があらわになるから誰にとっても難しいともいえる。

毎日の基礎練習を考えてきっとモーツァルトはピアノのほうに向かったのだろうと思うほどバイオリンは人体にとって不自然な楽器に見える。

しかし官能性、一体感、表現力などでのアドヴァンテージはあるから、人気も高い。

突き詰めれば同じようなものだろうと思いながら、脳に記憶された先生の指導集を浮かべながらバイオリンを手にする。

レオポルドからウォルフガングへの流れ、そこにあった音楽の感性、そんななにかを思いながら。

正しさと厳しさを静かに穏やかに感じさせ伝えていく。

暗黒時代に光と希望をもって歩む。