精神疾患の措置入院、保健所「前さばき」受診数押し下げか 岐阜県、国指針を拡大解釈「診察不要」
そんな見出しの記事を読んでみると、やはり日本人学者とマスコミには人権感覚に著しく欠ける者がいることが判る。
どういうことか?
警察官通報案件を保健所で診察につなぐべきかどうか、保健所の権限があたかもないかのような、警察官通報絶対論者が有識者だということになっていて、その論拠が保健師に精神保健の専門性がないからというから呆気にとられるやら呆れるやら。
記事の論調では、警察官に精神保健の専門性がないという歴然とした事実は不問なのだ。ベルトコンベアでアウシュヴィッツへ送るためには警察官通報イコール絶対入院という方程式を期待している。
保健所に配置を推奨している精神保健福祉士ですら、その必要性判断能力は低いし、むしろ保健師の実務能力のほうが高い場合が多い。その推奨配置で事態が好転するわけではなくむしろ有害無益だ。
さらに、現場の事例で少し経つと面接して落ち着いているケースが多く、些細な言い掛かりで危険視して強制連行するのは、かなり問題が大きい。
親族由来のものを重視するのも合理的な判断であって、現場の保健所のノウハウは高い水準で対応していることがわかる。
措置入院というのは、実にたいへんな破壊行動とか危険なレベルで手首を切ったとかそれらの重大な事実関係が当事者のものかどうかも確認できる場合が主であるが、この記事だと、冤罪や虚偽の申告を含めた少しムカついたとか取り乱してとか、極論は気分が不愉快なのでぶちこめという警察官裁量(濫用)を認めることになる。
事実、措置入院の必要がなかった百数十件の警察官通報があったわけである。
疾患のある人がなにかの拍子に手もとが狂ってコップを落としただけでも、危ない印象だから通報して入院させようということになると、まさに治安維持法の復活である。
大学院教授が現場の状況判断経路を正しく把握できておらず、むしろ正しい保健所の判断に圧力をかける差別的取り扱いの助長をしているのは、たいへんな問題だ。
精神医療、診察の必要性の有無と措置入院の必要性の有無を混同していることがわかる。
疾患のある人が保健師と面接するならば、適切な医療へのアクセスはほぼ確保される。精神医療の高度な知識がないだけで、中程度の豊富な知識とノウハウと幅広い健康面の知識こそ疾患のある人の助けになることが多いはずだ。
その上で診察につなぐケースも確かにあるわけだから、岐阜県の保健所のレベルは全国的にもかなりハイレベルだということが判る。
学者は学者に過ぎないケースと学者がミスリードするケースがあり、これは後者でまず間違いない。
国の指針を拡大解釈しているのは保健所ではなく、少数派や弱者を排除したい無自覚なナチズム信奉者たちである。
保健所のコメントは素朴に誠実な正しさだなと頷いた。
興味のある方は、記事を検索して一読してみるのも有意義だ。