どうにもならないものが相性だと言うバイオリニストがたくさんいるので、間違いなく相性はある。
わたしも感じる。
レッスンで必要最低限の緊張はあるが、別の不必要な緊張や感覚的違和感があると、まともに弾けない。
空気感。
さらに指導の手法によるものがあるので、相性が難しい場合はどうしようもない。
基準や目指すものの違いを理解できなければ、もはや人生の無駄になる。
講師は講師の経歴で持っている強味から指導するから、偏りがある。
クラシックの中のジャンル流派系統をまんべんなく許容できなければ、生徒の音楽性を破壊したりよじまげたりすることにもなる。
グリュミオーが理想の人なら豊田さんに習うとか、アウアー門下が理想なら誰に習うとか、理想から逆算して講師を選ばなければならないと、皆さん口を揃える。
あの先生ならほどほど練習の成果を出せるとか、あの先生なら完全に自由に理想の音を出せたとか、よい経験があると、難しい相性は浮き立つ。
楽曲の解釈は十人十色で、テュッティですら指揮者たちによって十人十色。
講師の解釈、講師の理想が意味不明な分類だったりかけはなれたりしていると感じる場合は、生徒の未熟さや独創性の道しるべにはならない。
一般的な音楽性などないから、楽譜の指示通りにとりあえずエチュードで練習し、楽曲の解釈と演奏はほとんど本人まかせで問題ない。
事細かに解釈を生徒に言う手法で生徒の音楽性は育たない。
楽曲全体の魅力や描き出し方を伝えることは案外難しい。
わかりやすい江藤俊哉さんの書き込み楽譜の細かさ丁寧さは、フレーズをイメージ的に掴んで表現することが多いが、楽曲全体を掴みづらい。
むしろ楽曲全体からどうしてもここはこう弾くしかないという感覚が自然に芽生えてそのように弾くのだという指導レベルの指導者は、おそらく世界中探してもそれほどたくさんいない。
現役演奏家ほど音楽に対する理解が同時代だけのものから判断する傾向が強いことや、専門の偏りで、生徒の音楽性を掴んで指導するのは至難の技でもある。
十代だった昔からわたしが思うのは、音楽性を人に教えるのは不可能だということ。
音楽性と人間性というのは感性と理性からできるもので、千差万別。
相性をどこまで合わせられるか、許容できるか、目標や目的に応じて多少我慢しても限度がある。
上達するかまともに弾けないかの2つの道しかない。
相性が難しいままでは、とても苦痛になるから、皆さんが先生を選べる環境であればよいなと思う。
音楽性を育てるのは、適度な生徒へのレスペクト、奏者へのレスペクト。
一定のレベルの演奏者の演奏を楽しむこと。
そして実際の音作りのための技術磨き。
とうてい講師1人でできることではない。
楽しく上達するための第一は生徒が音楽を求めていくこと。
第二は周囲が相互にレスペクトすること。
趣味でも受験でも演奏家でも、そこは結局みんな同じだろう。
独演会タイプのソリストが一定嫌われるように、講師の決め付けや先入観からくる生徒の音楽性否定では上達するわけがない。
篠崎史紀さんの書だったか、日本人は生徒を育てるのではなく、むしろつぶすというのは、そういうケースが蔓延しているからだ。
まともに弾けない生徒の内なる音楽性、素晴らしい感受性をつぶす場合は、相性が悪いのではなく、相性が難しいとあえて表記している。
宗教的偏りも音楽的偏りも一致して精密性だけをきわめさせる日本的価値観の無意味さもまたその難しさをさらに難しくしている。
欧州のオケやソリストの大半はのびのびとおおらかに小さなアラには寛大で豊かな音楽性に満ちていることが多い。
宅配サービスさながらに音楽を完璧でなければと迅速化させる時代の異常性と真っ向から抗う人間が極東にいたからといってその価値を理解できるレベルの人間がそれほど多いとは思えない。
現代の音楽家たちは、ほんとうに気の毒な環境で精密ボルトナットの製作ばかりやっているのだから、そもそも相性が成立しないことがほとんどなのだ。
音楽家ってそもそもなんだと考え、講師は生徒に何を求められているのかというズレの大きさに呆気にとられ、上達させずに成立する教室なんて成立しているのかと思い、相性よりいかに楽しく楽器楽曲を楽しむかという知恵こそ大きく、一期一会の積み重ねで織り成す各人各様の人生模様は多様さに富んでいて音となり、どんな人でもレスペクトしたくなるのが、ほんとうの音楽好きだろうと思う。
二、三年は相性よりも学びそのものの内容だけを吸収して、その後相性を考えるという順番を間違えてはならないが、わたしは産まれてくる国を間違えたので、その相性を修正するのは容易ではない。
明らかにわたしの思考・志向・嗜好は欧州のハイクオリティレベルだ。
精密規格にあそびを認める。
そんなもの揚げ足とりの日本人にはほとんど伝わらない。
大衆文化や商業主義でもない。
文化の内実、正味を見据えて熟考したい。