一般に薬品なら毒薬は分類して表示することになっていて、法律などでルールをはっきりさせている。
コンビニで何を飲もうか食べようかと選ぶ時に、毒物ではないから選ぶことができるだけだ。
自由のためには、危険表示が前提なのだ。
ヨーロッパで厳格な危険表示が甘いだけならまだしも、危険表示がまったくないのが宗教である。
犯罪行為、反社会的行為の累積が認められる場合には、有害性が認定され、法的に規定された基準による表示がなされる欧米国家に対して、日本ではまったくない。
グレーゾーンの取り締まりが追い付かない新手の薬品薬物ではなく、長年の事例から危険な問題ある宗教が野放しなのだ。
自由と自己責任の論理は無慈悲で合理性を著しく欠く。
安倍政治の自由には、地雷原を歩く自由という意味があった。
国は地雷で死傷する国民を眺めてせせら笑うだけ。
ただの危険表示ができない理由は創価学会である。
創価学会で犯罪を犯したり病気になったりした学術的研究事例を隠蔽してきたことと、安倍政治で統一教会の悪事を不問にしたことは、同じ流れである。
危険表示する必要性を認めてしまうと、本当は神道が1番に危ないからである。