FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

あるお酒のたしなみかた

近所で一夜干しのこまいを見つけて、久しぶりに焼いて食べてみた。

好きな人は知っているが北海道の魚で氷下魚と書き、くせのあるやみつきになる味で日本酒と実によくあうが、ご飯のお伴としてもかなりの実力だと思う。

日蓮は「たゞ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ」(四条金吾殿御返事)
「御さかもり夜は一向に止め給へ、只女房と酒うち飲んで・なにの御不足あるべき、他人のひるの御さかもりおこたるべからず、酒を離れて・ねらうひま有るべからず、返す返す、恐恐謹言。」(左衛門尉殿御返事)
などと身の安全のために妻とお酒を楽しむよう指示しているが、身辺の乱れを戒めて悪いことはなにもない。
世の中には居酒屋にすら行かない真剣な人種もいるのだ。四条金吾は武士だからなおさら。

四条金吾殿御返事「信濃より贈られ候いし物の日記・銭三貫文・白米能米俵一・餅五十枚・酒大筒一・小筒一・串柿五把・柘榴十」
松野殿御返事「干飯一斗・古酒一筒・ちまき・あうざし・たかんな方方の物送り給いて候」
などたびたび御酒を供養されて召し上がっていたようだ。
よく沢山の供物をするなあと感心するほど、日蓮大聖人御書には供養の品々への御礼の言葉が沢山見られる。

学生の頃は、ウイスキーを一晩であけたり、樽のビールを飲んだり、ウォッカに火をつけたりして遊んだが、あっという間に身体が言うことを聞かなくなり、若さでむちゃくちゃな飲み方をすることがまったく無くなった。
心臓に悪い。

素面で酔っているんじゃないかと思える節がある公的発言や権限の濫用はどこから来るのか。維新の橋下徹松井吉村らのとんでも発言の数々。連日の犯罪や汚職や事故などは素面ではできないものばかり。YouTubeで視たが、足立区のある商店街で自転車は降りて通行してくださいという看板を無視する人が8割らしい。子育ての電動自転車ママたちも昼間から酔っ払い同然である。
ワタシキレイ?とか言ってるお嬢さんにも珍しくないが。
昔、ジャッキーチェンの酔拳が面白かったが、危険な拳法だと説明がついて、エンターテイメントとしては、理解できるものの、実際はかなり危険である。

十法界明因果抄「正法念経に云く「殺・盗・婬欲・飲酒・妄語の者此の中に堕す」と大叫喚地獄なり、正法念経に云く「昔酒を以て人に与えて酔わしめ已つて調戯して之を翫び彼をして羞恥せしむるの者此の中に堕す」と叫喚地獄なり、」
守護国家論「深く三毒の酒に酔うて大通結縁の本心を失う」
お釈迦様は人間を地獄へ堕とす行いの1つとして銘記しており、さらに日蓮は、いかり貪り愚かの地獄餓鬼畜生の心に染まりきっている状態を本心を失い酒に酔っているとした。
利益率ばかり追いかけて弱者から掠め取り、軍拡に走り、維新プロパガンダ改憲プロパガンダに載せられるような心でもある。

正月と数ヶ月に1度、日蓮大聖人を想い慕い焼酎や日本酒を飲む。
なにか充実している達成感とあわせるのが一番のおつまみ。
憂鬱や怒りとあわせる飲み合わせは絶対悪で堕獄の因。
寿命が縮まり、心は真っ暗闇になっては、何も善いことはない。
少年時代のお屠蘇とコンサートの爽快な打ち上げのビールには光と希望が満ち溢れていた。
未来のない年齢に差し掛かった時、音楽と名器と時折味わう御酒が心底美味しく感じるかどうかを決めているものは、日蓮正宗寺院における唱題の心であるようだ。
色香美味。(妙法蓮華経如来寿量品第16)
釈迦一代の法華経は醍醐味に分類され、これを味わうと、御酒の味わいは別物になる。
御酒そのものは同じだ。
嗜む我々の心を日蓮と同じ魂にして飲む御酒が格別なものであることをちょっと書いておきたくなった。

音楽好きが酒と悟りの関数を学ぶ面白さとして、深い教えに耳を傾けるのも一興である。

御義口伝「御義口伝に云く酒とは無明なり無明は謗法なり臥とは謗法の家に生るる事なり、三千塵点の当初に悪縁の酒を呑みて五道六道に酔い廻りて今謗法の家に臥したり、酔とは不信なり覚とは信なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時無明の酒醒めたり、又云く酒に重重之れ有り権教は酒法華経は醒めたり、本迹相対する時迹門は酒なり始覚の故なり本門は醒めたり本覚の故なり、又本迹二門は酒なり南無妙法蓮華経は醒めたり酒と醒むるとは相離れざるなり、酒は無明なり醒むるは法性なり法は酒なり妙は醒めたり妙法と唱うれば無明法性体一なり、止の一に云く無明塵労即是菩提と。」
御講聞書「一無明悪酒の事 仰に云く無明の悪酒に酔うと云う事は弘法・慈覚・智証・法然等の人人なり、無明の悪酒と云う証文は勧持品に云く、悪鬼入其身是なり、悪鬼と悪酒とは同じ事なり悪鬼の鬼は第六天の魔王の事なり悪酒とは無明なり無明即魔王魔王即無明なり、其身の身とは日本国の謗法の一切衆生なり、入ると呑むとは同じ事なり、此の悪鬼入る人は阿鼻に入る、さて法華経の行者は入仏知見道故と見えて仏道に入る得入無上道とも説けり、相構え相構えて無明の悪酒を恐るべきなり云云。」

日蓮は酒を飲んで悪いということより、唱えるとどうなるかを説いている。唱えない場合に酒は悪鬼悪酒にもなると警告している。