FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

あとから基礎に取り組むとバイオリンの幼児教育は無効か?ある名演とわたしの心と

f:id:FujiYama:20220331191300j:plain結論は微妙。
右手の基礎を後からやるのは、ふつう不可能。
右手が進化するのは二十代くらいまで。
あとは退化するのがふつう。
四十代でやってみているが、技術的な向上というのは、音楽的完成に劣る。
音楽を先にしないと技術は向上しない。
音楽表現上の補佐として技術的基礎練習があるにすぎないと思う。
補佐とも言うが、追求とも言う。
後からでもまったくできないわけではないが、英才教育、幼児教育、音楽科高校大学などの密な音楽環境と仲間と取り組む世界なので、趣味の大人にはかなりハードルが高い。
本当は教師が見過ごして間違いを放置していることが多すぎるだけなのだが。
左手はわたしにとって想定外の時間を要するものだとわかった。
指先の弦にあたる角度がまったく違い、スズキで自分流に流れたもので15歳の時はきちんと音程がとれていたので、そもそも基礎をやる必要性を理解していなかった。
2年を越えて毎日取り組んでいるが、シュラディークでも音階でも楽曲でも、音がボケて仕方がない。
指先のほんのわずかな点で弦をとらえるのは同じなのだが、指の腹の別の点で弾く必要がある。指を指板におろす角度が違う。
左手指に関しては、まったくの初心者同然である。
点は同時に気を集める瞬間をとらえる点でもあり、時間的点、精霊的瞬間でもある。
これが専門家や音大生たちからすれば大ハズレなズレを生じ、本人もそのズレの大きさに最初は絶望して死んでしまいそうなくらいであった。
2年を過ぎてそのラグが埋まりつつあり、その体験をしつつ、過日桐朋の首席でウィーン留学をなさっている小川さんの演奏を聴く機会に恵まれた。
映像では拝見していたのだが、その演奏の素晴らしさは予想を上回る完成度で、技術的完成を目の前の至近距離で仰ぐことができた感動はとてつもなく大きい。
音程とかではないバイオリンとの一体感であり、わたしにとって伝統音楽との一体感を体験することほど幸せなことはない。
一切我が無い。
緻密な基礎の積み上げ、楽曲表現の追求、譲歩のない音づくりまで一貫した姿勢、立ち姿というものの美しさには、正直惚れ惚れする永遠を刻んだ絵に向き合ったような、感銘と感動を禁じ得ない。
幼児教育をかじって、基礎をやる機会がなかった人たちには、1日もはやく一流の伝統音楽と基礎カリキュラムに直接出会っていただきたい。
あまりに素晴らしい演奏に時に絶望したり落胆したりすることもある。
しかし確実に基礎を積んだだけ一ミリ一ミリ、いやコンマ一ミリでも理想に近づいていく実感を得られるようになれば、絶望や落胆が深いぶんだけ日々の喜びは大きい。
到達点はあまりにありきたりな伝統音楽でしかないように感じる人たちが多い。
しかし真の目標を知覚体感できた喜びはこの地上では決してありふれたものではない。
よくあるパターンは真からずれた演奏を聴いて、自分の内的真を浮き立たせる経験であり、それはそれでとても勉強にはなるのだが、わたしの内的真と伝統音楽と演奏表現が見事に一致するバイオリンソロを聴くことができたのは、それほど多い体験ではない。
彼女を育ててくれた方々にも会場の方々全員にも、この世界にも、心から感謝したくなったのは、きっとわたしだけではあるまい。