FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

成功を目指すことが正しいと信じている現代人の盲点

大金があれば幸せになると思っている人たちがほとんどだが、大金が人を不幸にすることがあまりに多い。
わたしは大金があっても大丈夫ですという人たちがみなさん不幸に陥るので、そもそも幸せの定義と価値観が違うのだとわかる。
人から見て幸不幸がわからないもので、本人の自由だというのは、本人の心が完全無欠な聖人なら成立する話だが、人類は面白いもので幸福追求の文化史が歴然と遺されている。
つまり幸不幸は客観化、客観視できるものだ。
いやそんなもの余計なお世話だから、人に言われたくない。
まさにそれも幸不幸の価値観だし、言われない人で不幸なお金持ちもいる。
ある程度の価値観は成人するとあまり変わらないので、そのそれぞれの価値観の中で、客観的な幸福を追求できればみなさん幸福に向かうことができる。
一財産築くことを目標にがんばることは、まったく不幸なことでもある。
現代人は成功して財産ができれば幸福になると錯覚させられ、洗脳されているが、どう考えても一安心に過ぎない。
安心や満足に貢献するお金の効果はとても限定的で、ほとんどどうでもよい。
教育研修費や給与所得水準は必要だが、そんなもの政府のプログラムから経済活動上自動算出されるだけで、努力しても大差ない。
地位を得れば維持するためにさらにお金が必要になる。
成功のために人を闇に葬り裏金を積み、その連鎖反応を見届ける不幸を成功だと感じる日本人は多い。
ほんとうの幸福は、いつ死んでも安心で満足だというピンポイントの魂を今、実現できるかどうかだ。
仏教でよいところは、世間で成功している人も、えらい僧侶も修行を生涯続けていく必要を認めている公平平等性だ。
法華経は自己中心の才能をみなさんのために活用して奉仕することを主眼とし、日蓮は直達正観、即身成仏の具体化を示した。
死ぬまで修行するのは不幸であり、楽な人生を送ることが一番だと考えるのは、浅はかな外道、低級なキリスト文化、神道の夢物語だ。
生涯パワーアップし続ける修行は日蓮正宗で可能である。
最初から自分が強いつもりの方々というのは、実はイヤなことを避け続けているだけで、真実は弱い綺麗事の心である。自分だけの心を隠すためにみなさんと共にとうそぶくのだ。
なかなか努力や知恵やなんかをめぐらしても、成功したようでも、大金があっても、ただ必死でゆとりのない日々になることが多いだけに、日蓮正宗というのは大穴、大当たりの貴重な魂のエネルギー源である。
価値観を越えて、立場や収入を越えて、あらゆる差異を超克していくことが愉快な醍醐味としてすぐに実感できる。
キリストの教えでも神道でも個々の単立を際立たせることが第一になり、孤独に懊悩することを大前提にし、苦悩は弱い個体に振り向けられる弱肉強食である。(実際の教会はむしろ孤独を癒す場で、非信徒の世間的な面だけで言えば)
しかし日本人は法華経と歴史上密接であり、聖徳太子から法華経の明確な国政上の地位が続いてきた。
どこまでいっても、皇室であっても、ルンペンでも、どんな人でも等しく幸福になることができる不思議な永遠の魂に、1人でも多くの人類がめぐり会えるように毎日願っている。