FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

邪馬台国みやこ説はありえる(驚き桃の木山椒の木)

f:id:FujiYama:20220209010016j:plain2019-10-29
  古代史 景行大王征西の地を訪ねて
というはてな記事をみつけた。
先祖ゆかりの箇所住所の第十話を一読して目が点になった。
わたし独りがそう考えるのではなく、同じような想像をして同じように考える人がいるものだ。妄想は拡がる。
京都平安京長岡京、奈良平城京あたりを皇紀に起算したい人たちはこの話を全否定して官僚がいなかった時代の天皇の京、首都を是が非でも認めようとはしないが、過度に感情的になるのは利権や名聞名利に執着しているからであり、もう少し肩の力を抜いて古代のロマンを楽しんだほうが健康的である。仏法伝来以前という区切り方もあり、そこも俯瞰しながら考えてみると意義深い。

邪馬台国は、九州、旧豊前国のみやこにあった。現在の福岡県行橋市延永(のぶなが)がその港町で中心であったのだろうとわたしは考えた。
奈良近辺を最初から京としたのではなく、みやこ地域から大王が奈良に移動して奈良をみやことしたのではなかろうか。
行橋(ゆくはし)あたりでは美夜古とか京都とか書くが、みやこと読む。
わたしの母と母の父の出身地出生がまさに延永であり、親族は国分寺の時代まで遡ることができるそうだ。みやこ一帯の住民たちは仏法による国家統治に完全に適応した。
つまり大王が奈良方面に遷都したあと、蘇我氏が勝ったあとからのもともとの京、京都の地主庄屋だったわけで、とても面白い。もちろん海岸線の移動に伴って祖先が移動している可能性はあるものの、海岸に近い中心の港で歴史的に回船で商売していた商人と姻戚関係にあり、そのあたりは結局同じ一族と見ることもできる。今の平安京京都市民の最古参や平城京奈良市民の最古参の立場のさらに古代版である。
今の横浜港とか東京港の古代版は博多の津と延永港(仮称)であったのではないか。やがて堺港、長崎港などに中心は移り、現在は蓑島漁港というとても小さな港になってしまった。
青年期まで長井の浜海水浴場に何度も行って佇んだ記憶があり、蓑島漁港の近くで食事をしたこともあった。あの穏やかな瀬戸内の海原の向こうに、ミレニアムな帆船が一瞬浮かんで見えたような気がした。
古墳時代4世紀といえばまだ仏教は渡来していない。鳩摩羅什が翻訳中。
福岡県九州全域に古墳や遺跡は無数にあるが、ヤヨミ遺跡ビワノクマ古墳は出土品から別格である。
大王だけが装備していた防具が出土し、大王は天皇と皇室であって、景行天皇より以前邪馬台国は延永にあった公算が大きい。
ちょうどみやこを移したその証拠が見事に出てきたのが、出土品の畿内との一致である。
最初は奈良方面畿内の出先支店としての京都郡であり、太宰府政庁的な位置のヤヨミ遺跡ビワノクマ古墳か或いは吉野ヶ里の出先かと考えたが、天皇のルーツが九州地方に多すぎることと競合するものが出雲広島岡山方面くらいしかなく、それも出土品から消去法でなくなるから、結論としては松本清張の想定と同じことになる。中国の外交記録にある日本の王権と出土品から考えるとやはりそうなる。
深い洞察力のあった作家であり、この一致は面白い。
吉野ヶ里から延永へ或いは並立しながら邪馬台国が成立して大王が住し、ある時畿内へ大王一族は遷都したのだろう。
ビワノクマ古墳の墓地に代々の当主の墓があり、広大な小作地を領していた先祖は地相のよい地縁だけでなく、人相も穏やかで柔和だった。農地解放後も残っていた土地遺産が母の手に渡り、近年200坪弱が東九州自動車道の用地買収の対象になったので臨時収入を獲て不純にもさぞかし先祖が有難いことだろう。
日本の王権確立が中国と北部九州と無縁でないことも様々な遺跡出土品などから間違いない。倫理道徳がなかった時代、王臣、親子、師弟子の道すらなかった時代のもっとも自然な王権確立のための政治的安定の立地こそ行橋みやこ地方であり、そこからさらに国家を安定させるために畿内へ向かった大王の判断は後の蒙古襲来を考えても正しい動物的本能でもあり文明国建国への戦略的判断でもあったと言えよう。

記事を一部引用させていただく。

第十話 長狭県

 天皇(すめらみこと)、遂(つひ)に筑紫(つくし)に幸(いでま)し、豊前国(とよのみちのくちのくに)の長狭県(ながをのあがた)に到(いた)りまして、行宮(かりみや)を興(た)てて居(ま)します。故(かれ)、其(そ)の処(ところ)を号(なづ)けて京(みやこ)と曰(い)ふ。


天皇は、ついに筑紫においでになり、豊前国 の長狭県に至って、行宮を造営して居住された。よって、その所を名付けて京という。


 景行大王が行宮(あんぐう)を造営した豊国とは、現在の福岡県京都郡を中心とした行橋市を含む豊前平野をいい、その中でも長狭県(ながおのあがた)と呼ばれる地域が中心地であった。また京(ミヤコ)に付いて、松本清張によると、景行大王が行宮を設けたため、ミヤコと名付けた事になっているが実際には逆で、ミヤコという古い地名が人や物の移動に伴って畿内に移っていったのである。

 つまり京都郡は、大和朝廷のかつての故郷であり、東遷して成立した大和政権の母なる地であることが推測され、京都を皇都として使い始めたのは奈良時代からであると説明している。           

また『豊後国風土記』が伝える豊国の由来について、『昔、景行大王が豊国直(とよのくにのあたい)の祖先、菟名手(うなて)が中臣村(行橋市)に至った時に日が暮れ、旅宿することにした。すると夜明け頃に、白鳥が飛んできてこの村に集まった。白鳥はやがて餅になり、さらに数千株の芋草(うも)と化した。菟名手が朝廷に献上すると、大王は喜び菟名手に氏姓を豊国直と賜った。だから豊国というのである。』

 この記事の芋草とは、水田での栽培が容易で、水稲への切り換えが可能な里芋(八ツ頭)が栽培されていた。そして飛んで来た白鳥とは、皮をむき白くなった里芋のことで、餅の様に見えた事からも里芋が植えられ、それが豊かに育つ国(豊国)をいっていると考えられる。なお豊国の由来について、邪馬台国の二代目の女王出ある台与(とよ)から来ていると考え、豊国こそ邪馬台国の所在地であるとする説もある。

 近年、東九州自動車道建設に伴う発掘調査の結果、これまで文献上にしか現れてこなかった、かつて草野津と呼ばれ近畿地方と九州とを結ぶ、九州の表玄関ともいえる重要港が姿を現した。調査の結果、ヤヨミ園遺跡(行橋市延永)と呼ばれる、この遺跡が古墳時代港湾施設である事が判明した。

 また、ヤヨミ園遺跡の3㎞西側には、古代交易市場の海石榴市(つばきち)(椿市)をひかえ、草野津で荷下ろしされた交易品が取引され賑わいを見せたであろう。現在でも、海石榴市と草野津の中間に長尾の地名が遺され、この辺りが長峡県の中心地と考えられてきた。

 当時、行橋平野はまだ形成されず東九州自動車道付近が海岸線であったが、その後、港湾内への土砂の堆積が進み草野津が使用できなくなり、大橋津への移動を余儀なくされた。そして草野津に隣接した標高約25mの丘陵上に、入港した船や湾を見下ろすように、琵琶ノ隈古墳(前方後円墳・四世紀末・全長50m)が築かれた。

 琵琶ノ隈古墳(ビワノクマ)古墳は、下に掲載した長尾県の写真の左端の森の中あたりに築かれている。なお写真は白村江の敗戦後(七世紀後半頃)築造された、御所ヶ谷神籠石(こうごいし)遺跡の御所ヶ谷第二東門から撮影したもので、ここからは長狭県を一望することができる。 

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   長尾県(行橋平野)   神籠石(水門)      ビワノクマ古墳
  所在地 福岡県行橋市行橋平野一帯  長狭県
  連絡先  福岡県行橋市歴史資料館
 TEL 0930(25)3133