FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

古墳時代と先祖代々のロマン

f:id:FujiYama:20220201233311j:plain小札革綴甲(こざねかわとじよろい)という武具を知っている人は、かなりの古代、古墳好きなのではないだろうか。
小さな鉄板を革で綴じた防具らしい。当時の最新鋭、最強の中国朝鮮半島からのものだ。
畿内のヤマト政権の古墳から2例出土しているだけでなく、もう1例出土している。

幼いころから先祖の墓参りに母方の親族に連れられて、よく小高い丘の墓地を訪ねていた。
曾祖父の墓石はひときわ大きくそびえ立ち、周囲の墓石を圧倒していた。後を継いで家の当主になった祖父が家の墓を小倉に移したため、今はもうない。
士族で戦死した祖母の兄の墓石は円形に並んだものの中の一つ。
士族の祖母の母つまり曾祖母の小さな墓は一番奥の高台にあり、後に造成工事にひっかかり撤去された。
23歳のときに、24年も前に確認して、遺骨が発見されなかった戦死した祖母の兄の墓だけはまだあったが、それもこれから管理を続けられるかどうか、現当主の意思は定かではない。
円形に並んだ墓が、きれいな丘の周りに並んでいて、その丘が古代からの前方後円墳の円墳部分であり、そのなかから出土したのが、小札革綴甲(こざねかわとじよろい)である。

古代から墓地として2000年もの間使われていることに驚いたのは地元民も同じようだが、この地を訪れるとわかるのだが、うってつけの高台なのであまり不思議はない。
現在、九州と言えば、博多福岡と北九州小倉が主要都市であり、一時期は門司港、長崎港、出島なんかが有名どころ。
せいぜい大宰府吉野ヶ里遺跡が歴史に出てくる。
そして現在の高台ビワノクマ古墳は内陸にあるのだが、古代には港だった。海岸線が違う。
実に古墳時代の九州地方の最強兵力を擁する港町だったのである。

母方の祖父はその土地の代々の庄屋の血筋で、その祖父の母は、代々大阪堺と交易のあった商家から嫁に来た。今は存じ上げないが商家は昔蓑島港の近くにあった。九州の最先端の流れを汲んでいた。医者になった従兄弟にも堺の血筋がいる。
そしてその商家の血筋は、いつかブログで書いた経営者で、年間売上が五百億円を超えている中堅企業だ。
商家出身の曾祖母はまだ5歳くらいだった私のバイオリンを冷やかして、チンドン屋にでもなるのかな?と笑っていた。90歳を越えて介護を受けるようになって見舞いに行き、ボケて孫も曾孫も誰だかわからなくなり、葬式は雪の降る日、士族出身の祖母と参列し、出棺を手伝った。
小笠原藩は小倉の前は明石にいて、私の学生寮は明石にあり、祖母はそれをとても喜んでいた。
バイオリンの幼児教育のメッカ松本で学んだ先生についていたが、もともと小笠原家は松本あたりの庄屋出身だ。祖母がなくなって40手前で初めて松本城を訪れた感慨はそれはそれは深いものだった。

今住んでいる東京にもたくさん史跡があるが、著名な海軍元帥の親戚に従姉妹が嫁入りしたと聞いている。
事情で当時お祝いができなかったが、何度かお会いしたことがある透明美人で優秀な女史だった。祖母は、士族は士族同士の縁組みが一番無難だという話をしていたので、まずはおめでたい。
古代から今の自分を繋ぐなにか言葉にならない想いを感じながら、折に触れて祖先を大切に追善供養するのもよかろうと思う近年である。
多様な価値観を知り、歴史を多面的に感じるためには、身分階級の混血はプラスになるが、自分が生育期に一番影響を受けたのは、士族の感性であり、禅宗やキリストと軍隊なのかもしれない。
不思議にも小笠原家の菩提寺黄檗宗であり、中国明朝からの流れを汲む。小倉の寿山にあるその寺で座禅をくんだ記憶がある。キリスト教の大学卒の親戚も多い。

きのうきょうあした。
古代、中世、現代とすべてが繋がっている。