FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

「母の叱責」で精神病発症した彼女の壮絶人生という記事

f:id:FujiYama:20211204152606j:plain世の中にはたくさん大変な人がいるが、女性だから大変という訳ではなく、精神病だから大変だというわけでなく、令和だからでもなく、原因を回避したり克服したりできないから大変なのかなと思った。
私の場合は幼少期から罵られ暴力をふるわれてきたが、この女性の気持ちでひとつ理解できるのは、母親がガンになって苦しんで泣いていてもなんとも思わなかったという点である。
私の場合は両親ともに苦しんでもなんとも思わない。
幸福な人生の基盤を徹底的に破壊された私からしてみれば、ただの敵であり悪党であり非人である。
無理して30代で戸建を新築引っ越しして後新興宗教に毒されて一家はおかしくなった。
わざわざ新築しなくても治安の良い広い芝生のお庭の家に住んでいたものを。よい掛け軸、金ぴかの仏壇、武具の残り物があり、桜、梅、もみじ、ヒイラギ、ツツジ、柿、ゴヨウマツ、水仙ホオズキ、ビワたちが、四季を彩る和やかな庭。
この女性は母親より劣っていたことが苦痛になったが、私の場合はいろんな面で両親のほうが劣っていた。劣っていたからこそ子供の人生を破壊しつくしたのである。
武田信玄は自分の父親を殺したが、私の両親は長男を抹殺するべく不正を働いた。
不正は完全に公的に補正され新興宗教狂信者に社会的制裁が下った。
一般にそれぞれのトラウマはあるが、みんななんとか生きている。
しかしみなさん同じなのは、克服は原則不可能だから、せめて一刻もはやく加害者や環境を回避するようにお願いをしたい。
頑張って耐えるなんて不毛なことはしないことだ。
イカれている加害者からは、逃げるが勝ち。
魂を癒し満たすための方策については、他の記事にたくさん書いたが、辿り着かずに苦労するだけのこの女性を大変気の毒に思う。
親に感謝して当たり前というのは、まったくの綺麗事であり、感謝できるのは心や信心の問題ではなく、たまたまうまくいったからできるだけで多くのケースではありえない。
私にとっては、暴力や暴言を一切使わなかった亡き祖父母が好きだった生活嗜好を懐かしみ感謝できるのが救いである。
私学の学費も祖父が出し、祖母はいつでも会えば交通費弁当代と言ってとにかく手間とお金を惜しまなかった。
鯖のぬか味噌煮とか毎日の芝の手入れとか仏壇へのお供えとか同居中の穏やかな日々とか。
故精霊追善供養に故人が好きだったものをお供えして自然とふとホッコリできる。
鯖はさすがにお供えできないが。。。


「母の叱責」で精神病発症した彼女の壮絶人生
中学生の頃は毎日死ぬことばかり考えていた
2020年03月12日
中村 淳彦 : ノンフィクションライター
石田さんは母親の虐待の影響で死にたくなるトラウマがあるという

この連載では、女性、とくに単身女性と母子家庭の貧困問題を考えるため、「総論」ではなく「個人の物語」に焦点を当てて紹介している。個々の生活をつぶさに見ることによって、真実がわかると考えているからだ。
今回紹介するのは、「中学生の頃から母親に心理的な虐待を受けて育ちました」と編集部にメールをくれた大阪府在住の32歳の女性だ。
大阪市内の福祉施設に勤務する石田美央さん(仮名、32歳)と、天王寺で待ち合わせた。浮かない表情でやってきて、すぐに話は始まった。精神疾患があるようだ。

1年前に中学時代から抱える精神疾患が悪化し、職場の雇用を正規から非正規に転換。介護福祉の賃金は64業種中64位(参考記事:最新版!40歳年収「64業界別」ランキング)である。元々、低賃金だった収入はさらに半分以下になり、1人暮らしの生活が維持できなくなった。現在は実家で暮らしている。

大阪市は貧困が深刻な地域だ。生活保護率が全国1位、就学援助を受ける小中学生は4人に1人を超えている。


母の虐待の影響で、希死念慮に襲われるように
「母の虐待の影響でトラウマがあります。症状が悪化すると、希死念慮がすごくなる。自分でも怖いくらい、本当にすごくて、線路とか見ると飛び込みたくなってしまいます」

深刻な語りが始まった。口調は喜怒哀楽があまりない。自分の病状や症状を理解して、冷静に伝えてくれる。

この連載の一覧はこちら
「歩いていると高い建物とかあるじゃないですか。衝動的に最上階に行って飛び降りたくなったり。だから、なるべく高いところに行かないように気をつけたりとか。死にたくなると本当に死にたくなる。だから死にたいのを我慢したりとか、いつも大変です」

1年前、いつものように福祉施設で働いていた。相談職なので介護だけでなく、利用者家族やキーパーソンと頻繁に連絡をとって、ケアプランを立てたり、アセスメントする。いつもと変わらぬ日々だったが、ミスをして上司に強い口調で叱責されたことがきっかけで、強い希死念慮に襲われた。本当に心から死にたくなった。

希死念慮はおさまっても、また出てくる。その繰り返し。怖くなって主治医のところに行ったら、即入院になりました。それからどうしても仕事がうまくこなせない。事務の処理が遅くなって、利用者さんと会話できなくなったり。頭の回転が遅くなりました」

常勤は無理と判断され、シフトを減らされて非常勤に転換となった。週3~4日勤務で時給1000円、年収は100万円をちょっと超える程度。賃金は正規雇用のときから6割減となった。

石田さんは福祉大学を卒業し、社会福祉士など、複数の国家資格を複数所持する。介護現場ではエリート層だが、非正規となった瞬間に最低賃金に近い賃金となった。貧困だ。障害年金に支えられ、なんとか最低限の生活を維持している。

手取り8万円程度の就労収入、月6万5000円程度の障害年金では1人暮らしを支えられない。現在、単身女性の3人に1人が貧困といわれている。可処分所得がおおよそ年間120万円以下で相対的貧困に該当となる。

現在の収入を見てみよう。収入(就労8万円+障害年金6万5000円-家賃5万円=可処分所得9万5000円)で貧困状態である。奨学金の返済も残り、どんな節約してもお金が足りなくなった。“ちゃんと働いても貧困”というのは、平成以降の女性の貧困の典型である。石田さんのような低賃金に苦しむ女性は、本当に全国にあふれている。

苦しいながら家賃を払って暮らしたが、食べる物にも困る困窮状態となった。実家に戻った。現在、職場と実家を行き来するだけの生活を送る。お金がないので遊びに行くこともなく、友達も少ない。異性と出会うキッカケはなにもないので、32歳になっても未婚のままだ。


明るい未来は頭の中に一切なかった
「結婚とか出産とか、もうずっと前に諦めています。福祉の仕事も同じ日常の繰り返しで、たぶん将来的にもずっと低賃金。もう、自分が生きるだけでいっぱいいっぱい。いろいろ諦めるしかないですよね」

結婚出産どころか、恋愛も諦め、福祉の現場仕事も低賃金労働の繰り返しでしかない。明るい未来は頭の中に一切なかった。いったいなにがあったのか、詳しく聞いていこう。

実家は大阪市内、小学校までは家庭は平穏だった。先ほど精神疾患になった理由は「母親の虐待」といっていた。母親がおかしくなったのは、小学校6年のとき。大黒柱だった父親の勤めていた会社が倒産してから。

「会社が倒産して、父親がサラリーマンじゃなくなった。自営業で仕事をするようになって、すごく収入が減ったんです。それで母親がおかしくなりました。収入が安定しないのはすごくストレスだったみたいで、父親と私に対してストレスのはけ口を向けた、というキッカケです。異常なヒステリーですね」

母親はつねにイライラし、容赦なく怒鳴り散らした。小学生だった石田さんは毎日、毎日、なにかしら理由をつけて怒鳴られた。母親の甲高い声を聞くだけで動悸が高まり、怯え、恐怖とストレスで家庭に安心できる場所がなくなった。

「母親のほうがあらゆる面で、私より能力が上でした。器用だし、物事を早くこなしたり、私は不器用で、いろいろ苦手で。だから怒鳴り声の内容は『なんでみんなできているのに、あなたはできないんだ!』みたいな。あと『よその子はできているのに、お前はなんでできてへんねん』とか。母親は私を見ていると、とにかくイライラするようでした」

中学生になってから、虐待はさらに激しくなった。毎日理不尽に怒られるようになって、自分がすべて悪いと思い込むようになった。

「どんな理不尽でも、自分が悪い。それであまりよくない方向に考えてしまう。自分がいなくなれば、すべて解決するって。母親が私が帰ってくるのが遅い、学校から帰ってくるのが遅い、というだけで怒る。学校から帰ってきた、私が悪いんだってなって。最終的にはいなくなったほうがいい、私が死ねば、ぜんぶ解決すると思い込むようになった」

自殺願望である。それまでは追い詰められて、家出など、いろいろ逃げ道を考えた。“全部自分が悪いので、自分が死ねばいい”と思い込むようになって、つねに追い詰められていたキモチがすごく楽になったという。

「母親に虐待されて、つらい。そういうときに遺書の内容はなにを書こうかとか、どんな方法で死のうかとか、そういうこと考えていると、やっぱりそのときだけ楽なんです……だから、希死念慮がどんどんひどくなった」


高校生になって声が出なくなった
最も悪化したのは、中学3年から高校にかけて。毎日、つねに死にたいと思うようになっていた。

「母親からの叱責がつらかった。誰かに助けを求めようとしても、母親から口止めされた。家の中のことを一切話すなと。だからやっぱり先生にも本当のことは話せない。今となれば、そんな約束を守る必要はなかったけど、絶対に約束を守らないといけないって外の人に相談ができなかった。なので、やっぱり思い詰めてしまった」

高校生になって声が出なくなった。失声症だ。心配する担任にいろいろ生活環境を聞かれたが、口止めする母親の顔が浮かび「母親に叱責されている」とは言えなかった。自分自身がどんどんと壊れていった。

――母親に叱責をやめさせるのは難しかったの?

石田:なかなか厳しかった。「もうそんなこと言わないで」とか言っても、母親なりの理屈で丸め込まれた。例えば父親の愚痴とか言われたとき、「もうそんな話聞きたくない」っていえば、「お前は、あの父親の血を引いている人間だから、聞く義務がある」みたいな感じになります。

――もう破綻しているね。

石田:父親に対しての愚痴とか悪口は「あいつ死ね」とか、毎日そんなレベルでした。「あいつは何もできない」とか「前代未聞の無能」とか「私の人生はこんなはずじゃなかった」とか。そういう発言が多かった。私はいちいち怖いし、嫌なキモチになる。

自死をしたい希死念慮とは、どういう感覚なのだろうか。石田さんにもう少し聞いてみた。

――自分なりに死に方とかいくつか思い浮かんだと思うけど、どうするのがいいかなと思っていたの? そのときは。

石田:ベストかなと思ったのは飛び降りです。とりあえず一瞬で死ねるかなという。

――どこから飛び降りるの?

石田:近場の高いところ。いちばん考えていたのが、中学校の近くに鉄道線路を越える高架道路があった。高架の頂上から線路に飛び降りたら死ぬかなとか。

――高架があって、下に鉄道が走っているところ。

石田:そうです。だから飛び降りて、列車にひかれたら死ぬかなみたいなことはいつも考えていた。飛び降りとひかれるのとダブルであるから確実性が高いかな、みたいな。そういうことはよく思っていました。

――希死念慮って怖いね。

石田:あと、中学3年とか高校のとき、あまりにつらくて首吊って死にたいなって。ぼんやりとカーテンレールとかを見つめていたら、飼っていた猫がすりすり寄ってきた。それで止められた経験があります。いつもだったら、すりすり寄ってこない猫がめっちゃすり寄ってきた。それで助かった。本当にあぶなかった。


「あんた、薬漬けにされるよ」
精神疾患を抱えて苦しい状態だった。福祉系の高校に進学した。苦しくて精神科に通うようになった。統合失調症と診断された。重い病名がついても、母親の叱責の理由となった。どうしても自分のせいで娘が壊れていることを理解しなかった。

「母親はなにかにつけて怒るようになって、精神科に対するイメージがすごく悪くて『あんた薬漬けにされるよ』とか。『薬漬けにされて、訳わからなくなるから、薬を飲むのをやめなさい』とか。娘が精神的に滅入っていることを認めたくなかった。まして、精神科に通っていること自体も認めたくなかった」

病院に通うようになってから、精神薬の副作用で疲れる。家で横になる時間が増えた。その状態になっても、母親からの叱責は続いた。

統合失調症の症状を抑えるため、複数の薬が欠かせない(編集部撮影)
「ののしられ続けました。薬の副作用でちょっとしんどいとき、横になった。そしたら『起き上がれ!』って。『精神科に通うのは弱いやつばっかり』みたいなこと言われて、実際に精神科に行って母親からの叱責が激しくなったので、よくならなかった。そのときは自暴自棄になって、死にたいって薬を全部飲んでオーバードーズしてしまいました。今でもよく覚えているけど、本当につらかった」

大学卒業して国家資格を取得して、社会福祉法人に就職。自死念慮はずっと抱えたままで、母親からの叱責も続いた。27歳のときに家をでて市内で1人暮らしをはじめた。

「今をどう生きるかとかって、みんなたぶん思うけど。私は毎日、どう死ぬかということを思っていた。将来のことを考えても、いずれ死ぬんやろうなって。大学卒業して資格を取ったときも、いずれ死ぬんだろうから、それまで勤めておこうかなとか。そういう感じ。だから、結婚をしたいとか、そういうことが一切考えられなかった」

29歳のとき、母親ががんになった。手術、10カ月後に再発した。全身転移してもう助からない状態となった。そして、母親は永眠した。

「再発がわかったとき、やっぱり慰めてもらいたかったみたいだった。『がんがしんどいし、私、いずれ死ぬんや』とかいう話になったとき、私がもう『ふざけるな!』って感情的になってしまった。そこで母親が泣いた。そういうことがあった。『今まで散々人のことを苦しめてきたのに、自分がいざしんどくなったら、なんで人を頼るんだ』ということは伝えました」

辛辣な娘の言葉を聞いて、母親は泣いた。弱々しい姿だった。母親の涙を眺めても、石田さんの気持ちは冷めきっていた。なんとも思わなかった。

「今まで自分がしてきたことを棚に上げて、なにを言っているんだろうと思いました。私がいちばん苦しいとき助けてくれなかった。そういう相手に対して、なんの感情も芽生えないというか。母親が死んだときも、なんとも思わなかった。やっと死んでくれた、みたいな感じだった」


希死念慮は再発したが、なんとか生きている
そして1年前。職場でささいなミスをして上司から怒られた。

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その怒声で母親の叱責がフラッシュバック、強烈な希死念慮が再発した。どうしても死にたい気持ちがおさまらなくなって、病院に駆け込んだ。即入院となった。

「入院中、作業療法というのがあるんです。手芸をやったり。入院中に仲よかった人とか、親しかった患者さんからいっぱい作品をもらった。携帯の革細工のストラップとか、組紐のやつ、ストラップとか。みんなに死なないって約束しました。だから死ぬことイコール裏切ることになるので、頑張れている感じです」

現在、貧困で苦しい生活ながら、実家と職場の行き来はできている。仕事も以前ほどのパフォーマンスは出せないが、なんとか働けている。明日もなんとか生きる。そう思いながら生きている。

今日は久しぶりに天王寺まで電車で来ることができた。死にたいとは思わなかった。少し、自信になった。

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