FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

西洋音楽鑑賞雑談「ちょっといいこと」に個性が出る

f:id:FujiYama:20211205133439j:plainよく聴きにいく楽団のキャスティングがしばしば変更になる。
コロナのおかげで興醒めするプログラムに豹変することすらある。
なんだそんなものかと馬鹿にできるようなものでもないから、なんとも言いようがない。

かねてからYouTubeで芸大ピアノ講師のチャンネルを見て、オピッツ先生というのはどんなに素晴らしい演奏をするのか、それなりに興味があった。
ふつうにチケットを探すのは大変だし、ピアノは好きだがわざわざ行く機会を作る程でもない。
そこに急遽出演者変更の報せ。
福音である。

水と空気とオピッツのピアノ
一音目、ワンフレーズで耳からウロコ。なんだろうこの空気は?ただまろやかとかきめこまかとかいう表面上の美しさとは違う。
華やかなきらびやかな曲でしかないはずだか違う。
今までに聴いたどのブラームスでもない。
驚天動地の魂の革命的な出会い。
オピッツといえばベートーベンとブラームスというくらいの十八番だそうだが、弦楽器でいえば、音の表面にギラツキというか自己主張に近いものを感じるのが常だった。音の香り、光のスペクトラムを自分なりにわかっていたつもりだった。
しかしオピッツ先生の音にはそういう不純物がまったく微塵もない。
ブラームスのピアノ協奏曲2番という曲のせいでもない。リストと同時代、もっとアピールできる箇所はいくらでもある。
日本人の一流がほぼニセモノだとはっきり悟るような、衝撃的に穏健なまさに古典的演奏だった。海外演奏家でも変わらないが、新興勢力やコマーシャル音楽家には絶対に出せない空気が確かに存在した。

水と油の凡才が骸骨の超絶技巧
一生24時間の間、音楽のために生きている音楽家に変わりはないはずなのに、呼吸が違う。空気が違う。ライオンの若い群れが草原で転げたりおいかけっこしたりして遊んでいる感じに見える。
比較するのは失礼だったり申し訳なく思うこともあるが、どの演奏家と名前は出さないが今までの日本人の海外でも評価されている最優秀のピアニストやバイオリニストの演奏にすら、どうしようもない水の違いを感じた。愕然とするような違いを。

オピッツ先生のようなお手本を正しく選んだ日本人はまだましなこともあり、生育環境を欧州に定めた日本人が空気をわかりやすいこともあり、それらを実際やってみて開花しなかったほとんどの著名一流奏者たちは気の毒ではあるが、あまりに費用対効果が悪すぎる。
芸術文化は資産を湯水のように注ぎ込んでできるものではない。
いくら日本人がお金をかけても、水がわからない大半の人には不可能だ。
バイオリン本体の良し悪しの記事でも書いたが、特によい演奏と一流の演奏のチケットがもったいない表現ではあるが品質と比例しているとも限らない。
チケットが高いのは演奏の優秀さを担保しない。
無駄な音楽文化が溢れていることも確かであり、音楽教育上の環境としてアジアや東京はビミョーなところである。
指揮者音楽監督ソリストにホンモノを迎えることが、どれほど大事なことか改めて認識を深めた。
たいていの民は大抵ズレている。
楽家になったり芸術家と呼ばれたりすることには、なんの価値もないのだと痛感した。
収入や名声がインチキと同レベルになる日本の西洋音楽文化というのは、なんとも寂しい限りだ。
マスコミ絡みの私利私欲や営利の音楽文化にしばしば嫌悪感を覚える。
キュッヘルのゲストコンマスも観たが、ほんとうの一流はみんな自分の存在を微塵も前には出さない。
教室の先輩が好きな言葉は「謙虚」だった。