まえがき
最近プレジデントオンラインの記事でわかりやすい経済学者の見当違いがあったので、ある学士のツッコミとして記録しておく。先進国の経済学の定義や目的観などが柔軟で広範であるのに対して、日本の経済学者はきわめて狭い見方をするため、その動機や考え方がどこから生ずるのか問題意識を持ってきたが、よいボケとして柿野氏の記事が格好の材料であったので取り上げた。なお私的感情については個人の問題であり、学士とか博士とかいう立場から訴えるべきではない。哲学と宗教についてもかなりのズレを持っているため、建設的な議論は期待していないことを前もって断っておく。私の母校(関西圏)の経済学部とも政治的にまったく無関係であり、純粋に学問と道義的な面からの私記事である。なぜ経済学部出身(日本の大卒)が役に立たないのか?という疑問のある方の参考にもなるだろう。
ツッコミは☆と太線で強調した。
筆者 柿埜 真吾(かきの・しんご)
経済学者・思想史家
1987年生まれ。2010年、学習院大学文学部哲学科卒業。12年、学習院大学大学院経済学研究科修士課程修了。13~14年、立教大学兼任講師。20年より高崎経済大学非常勤講師。主な論文に「バーリンの自由論」「戦間期英国の不況に関する論争史」など。著書に『ミルトン・フリードマンの日本経済論』がある。
「必ず独裁と貧困をもたらす」それなのに社会主義に共感する人が多いのはなぜなのか
☆資本主義こそ特許による独占とグローバル資本の言いなりの政府という独裁と大量の貧困を必ずもたらしている事実
人類史の大半はゼロ成長社会だった
☆技術が十分に発達した現代のゼロ成長に問題はない。政府の公共部門がきちんと予算配分と人員配置を怠らないことのほうが重要である。
脱成長」や「反資本主義」を唱える本が最近ベストセラーになっている。哲学者・経済学者の柿埜真吾さんは「脱成長や社会主義の訴えが一部の人に魅力的に響くのは、私たちの文化が長い間親しんできた考え方とうまく調和するためである」という――。(後編/全2回)
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【前編】「コロナ襲来で世界は根本から変わった」そんな"知識人たちの主張"を信じてはいけない
※本稿は、柿埜真吾『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
給油を待つトラックやバスの長い車列(ベネズエラ)写真=AP/アフロ社会主義体制をとるベネズエラでは、産油国にもかかわらず燃料不足がたびたび発生している。給油を待つトラックやバスの長い車列。(2021年3月4日)
☆自由なのに自動車を保有できない人たちを無視していることになにも感じていないのはとても不思議だ。保有していてもガソリン代を気に病むドライバーがいる。みえないガソリン不足はかなり蔓延しているが取り上げられない。
気象関連災害による死亡者数は激減している
☆ゼロ成長でも死亡者は増えない
(前編より続く)地球温暖化問題はどうなのか。やはり資本主義は環境を破壊し、ますます被害を拡大させているのではないか。2019年に16歳のスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリ氏が国連のスピーチで述べたように、「〔気候変動により〕多くの人が苦しんでいます。多くの人が死んでいます。私たちは大量絶滅の始まりにいる。それなのに、あなたたちが話しているのは、お金のことと、経済成長がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!」(*1)と言いたくなる方もいることだろう。
だが、やはり事実を見てほしいというしかない。気象関連災害による死者は経済成長とともに大幅に減少してきた。人類はかつて自然と調和した素晴らしい生活を送っていたのに資本主義と経済成長のせいで、自然に復讐ふくしゅうされているといった物語は事実に反する。母なる自然は有史以前から人類に全く親切ではなかったのである。
☆産業革命以降資本主義と経済成長は人類に全く親切ではなかった。人間の成長や宗教や道徳や伝統こそ人間に親切である。経済行動の分析予測ができない経済学は効用が低く、人間の行動規範の多様性を無視した経済消費モデルの限界は明らかである。
【図表1】世界気象関連災害の死者数の推移出所=『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』P.22 EMDAT database. 各年代の平均値
20世紀以降の世界全体の気象関連災害による死亡者数は、2010年代が最も少なくなっている(図表1)。死亡率は1920年代から、なんと約99%も減少している。古い時代には報告されていない小規模な災害も少なくないと考えられるので、この数字は実際の低下率をかなり過小評価している。これは経済成長に伴い、人々がより頑丈で安全な家に住むようになり、防災インフラも向上した結果である。脱成長こそおとぎ話だ
☆低下は経済成長に伴うものではなく土木公共事業や公営住宅など社会主義的な政策による。
災害大国である日本は昔から深刻な水害に何度も見舞われてきた国だが、水害の被害額の対GDP比率や死者数は経済成長に伴って高度成長期以降、大幅に低下している(図表2)。経済成長とは、まさに人類の素晴らしいサクセスストーリーである。貧困をなくし、世界を豊かにしてきたのは経済成長であり、経済成長を可能にした資本主義である。経済成長を罵倒したところで温暖化問題は解決しないし、脱成長にすれば自然と調和して人類は幸福に暮らせるというのは全くのおとぎ話というしかない。
☆貧困が減少したのは各国のそれぞれのほんの一時期のことでふたたび増加に転じた。水害の死者だけを見てもなんの説得力もない。武田信玄公も治水をやったが土木技術が追い付かなかっただけのことで、政治と技術の進歩が被害を少なくした。
【図表2】日本における水害の被害の推移(1875-2019)出所=『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』P.23
温暖化についてはまだわかっていないことも多いが、気候変動と闘うためにも革新的な資本主義経済が不可欠であることは間違いない。チェルノブイリ原発事故などを想起すれば容易に理解できるように、社会主義体制が温暖化対策に有効である可能性は極めて低い。社会主義体制は経済成長せず、国民を豊かにできないだけでなく、合理的な資源配分メカニズムが欠如しているため、環境にも最悪の影響を与える全くとるところのない体制である。
☆東北の原発事故の事実は膨大な困窮者を生み出していまだに解決の方途すらないがそこに触れないのは極めて不自然である。
☆社会主義の国家はもはや地球上に存在しておらずどの国も並立制しかない。社会主義の国と言っても通貨と外貨を持ち、亡命する人がいれば、自由主義経済圏は地球全体であって例外的地域があるにすぎない。
豊かになることを望み、自由なライフスタイルを楽しみたいと考えるのは人間の自然な本性である。経済成長は誰かが無理やり作り出したものではなく、人間の自由な経済活動を制約しなければ自然に生じてくる結果である。脱成長を強要しようとすれば、政府や共同体が生活に事細かに介入し、何をなすべきか命令する恐ろしい監視社会にならざるを得ない。人間自然な姿を否定すれば、待っているのは全体主義社会である。
☆望んでも全く豊かにならず、自由どころか困窮し、経済活動どころではなく、資本主義による制約がたちはだかる資本による全体主義社会に疑義がある人たちが先進国で明らかに増えている
早まって成功の鍵を捨ててはいけない
パニックになる必要はない。冷静に事実を検討すれば、人類のこれまでの歩みは間違っていなかったし、未来は希望に満ちていることがわかるはずである。私たちが唯一恐れるべきことは、根拠のない恐怖に惑わされて、これまで人類の成功の鍵だった資本主義と経済成長を捨ててしまうことである。
☆自由資本主義に行き詰まりを見ている人たちが多く社会主義との並立制をみなが合理的だと見ている。バイデンのインフラ政策もそのひとつ。経済成長よりインフラ維持と貧困対策が喫緊。
コロナ禍や気候変動といった人類の直面している課題を乗り越えるために、今ほど資本主義が必要とされているときはない。早まって資本主義を捨てることは、先人たちの築き上げてきた文明の遺産を捨て去ることである。人類のかけがえのない自由、民主主義、人権は、資本主義文明の産物である。
☆資本主義文明などという忌まわしい近代の悲劇と現代の敗北はわれわれを幸福にしない。
『自由と成長の経済学』
社会主義経済は例外なく独裁を生み出す
これまで歴史上に現れた社会主義経済体制は、例外なく個人の自由を認めない最悪の独裁体制を生み出してきたが、これは決して偶然ではない。私的所有権がなく、政府が資源配分を決める社会主義経済では、ロシアの革命家レオン・トロツキーが述べたように、「働かざるもの食うべからずという古い掟は、従わざるもの食うべからずという新しい掟にとってかわられる」ことになる。
資本主義社会では、どんな理由からにせよ、ある会社がこの本をお読みの読者との取引を拒んだとしても、読者は他の会社と取引できるが、社会主義社会では政府が読者との取引を拒めば、読者は何一つ手に入れることが出来ず、餓死するしかない。
社会主義者は企業家のことをよく「独占資本」などと罵倒するが、社会主義計画経済は、政府という唯一の雇用主しか存在しない究極の独占である。資本主義社会では、ある会社が読者を雇わないと決めても、読者は別の会社を探せばよいが、社会主義社会では政府が読者を決して雇わないことに決めたら、読者は生活手段を完全に失ってしまう。
不当さを訴えようにも、話を聞いてくれる新聞社も弁護士もいないだろう。仮に読者に同情する心ある人がいたとしても、その人もやはり政府に解雇されてしまうだろう。全てのメディアが国営メディアである国に言論の自由などあるはずがない。
☆代替の相手を探すことができる経済活動をしているのはごく一部である。自由だと感じるのは主観で別の人が損害をうけていることを無視することを当然だというなら自由には間違いなく弊害がある。別管轄へ移動させて解決することもある。シベリア送りの資本主義版というのもある。資本主義が必ず自由だという決めつけや思い込みは幼稚な論法しか生まない。
実際の社会主義国の歴史を見れば……
気取った知識人はしばしば物質的問題を軽蔑して見せるが、物質的問題を精神的な問題と切り離すことは不可能である。精神の自由は、個人が自分自身の私的領域を持つことを許されない社会ではありえないのである。
☆気取った自由主義者はしばしばインフラ問題と困窮者を軽蔑する。精神の自由は社会規範や宗教と貧困に縛られた資本主義社会であってもありえない。資本主義では予算内の商品以外ほぼなにも選べない。
実際の社会主義経済は、私的所有権を部分的に認めたり、市場経済を一部取り入れたりしているので、ここまで徹底してはいないが、歴史的に見て、社会主義の要素が強ければ強いほど、政治体制がますます抑圧的で全体主義的になる傾向は明瞭に見て取れる。レーニン、スターリンのソ連、毛沢東の中国、金王朝の北朝鮮、ポル・ポトのカンボジアといった20世紀の全体主義体制はその最悪の実例である。
☆もはや過去の遺物は問題ではなく、欧米のように社会主義の利点を躊躇わずに採用すべきだ
脱成長も社会主義も反動思想である
「21世紀の社会主義」を標榜するチャベス大統領が民主的に政権に就いたベネズエラも、かつては豊かな天然資源に恵まれた民主主義国だったが、今では一人当たり実質GDPは半減し、電気や水道、食料にも事欠き、人口の2割(*2)という驚くべき数の難民を出している独裁国家になり果てている。
前著(『ミルトン・フリードマンの日本経済論』)でも紹介したように、ベネズエラは社会主義化が進むにつれて次第に自由を失い、遂には経済も完全に崩壊するに至っている。現在のベネズエラでは反体制派は食料の配給から排除されており、トロツキーの言葉通りの状況に置かれている。社会主義はいつの時代であれ、常に独裁と貧困をもたらさずにはいないのである。
ところが、悲惨な実績にもかかわらず、脱成長と社会主義には人を惹きつけてやまない魅力がある。一方で、素晴らしい実績にもかかわらず、経済成長や資本主義は誤解され、否定的に評価されがちである。これは一見不可解な現象だが、それほど不思議なことではない。
☆経済成長と資本主義は不完全なものである。誤解や否定的評価とは言えない適切な指摘を無視する傲慢さをもって貧困層や困窮者を大量発生させている。
近代以前は「自然と調和した素晴らしい社会」だったのか
脱成長や社会主義の訴えが一見すると魅力的に響くのは、私たちの文化が長い間親しんできた考え方とうまく調和するためである。資本主義の下での経済成長が始まったのは人類の歴史全体から見ればごく最近に過ぎない。
☆そもそも社会主義の訴えには政治体制を変えるという極端な訴えはない。資本主義を修正し補完する必要を訴えているにすぎない。
人類はその歴史の大半を通じてゼロ成長の閉鎖的な部族社会や封建社会で暮らしてきたし、いつも貪欲や競争を非難し、禁欲的生活を称賛する思想家や宗教家の教えに従ってきた。脱成長と社会主義の思想は、人類が太古から信じてきた教えに極めてよく似ているのである。
☆事実として人間は資本主義に適応できていない。成功者だけが自由と権利を獲て、9割以上が不自由と制約に喘いでいて、永久にその不自由さは変わらない
だが、近代以前の古き良き社会が自然と調和した素晴らしい社会だったと考えるのは幻想である。近代以前の社会とは血なまぐさい戦争や内部抗争を繰り返す、階級制社会であり、自然と調和してなどおらず、常に自然の猛威にさらされていた。昨日までの恐ろしい世界から、資本主義を発見した人類は経済成長によって抜け出してきたばかりである。脱成長」は新たな「隷従への道」である
☆資本主義の近代こそ大量虐殺と殺戮の時代であり巨大国際資本への隷従を強制している
厳格な掟や因習に支配された部族社会やあらかじめ特定の思想家が構想した設計図のある社会主義社会や宗教原理主義共同体とは異なり、資本主義社会には予め決まった設計図もなければ定められた運命もない。資本主義社会の将来を決めるのは、多様な考えを持つ人々の民主的討論と自由な挑戦である。人類のサクセスストーリーはもしかするともう終わりなのではないか、これまでの成果は本当に確かなものなのか、時に不安を感じるのは当然である。
☆自由は免罪符ではない。危険で犠牲を生みつづけるマフィアの思想だ。
柿埜真吾『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP新書)柿埜真吾『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP新書)
だが、心配することはない。資本主義文明が達成したこれまでの成果は想像もしなかったような素晴らしいものだった。よりよい未来を目指して、資本主義文明のもたらした、開かれた社会への道を引き返すのではなく、さらに進むべきである。
経済成長を放棄したところで、理想的な状態など決して訪れるはずがない。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が提唱するような「脱成長コミュニズム」では、現代の文明を守っていくことは到底できない。かつて、オーストリアの経済思想家フリードリッヒ・ハイエク(1899-1992)は、『隷従への道』(1944年)において、社会主義計画経済は必然的に全体主義体制を招くと警告したが、昨今流行している「脱成長コミュニズム」がもたらすものは、その意図に反して、まさしく新たなる隷従への道に他ならない。
☆インフラや教育システム、貧困対策などの計画的な公共投資の重要性を一言もしない資本主義は貧困と虐殺を予定している。設計図がいらないなどという暴論で遺伝子のメチャクチャな文明的奇形を無責任に産み出そうという蛮勇には賛成できない。人間社会や文明史を俯瞰して社会主義か資本主義かという対立軸を構えた時点で、知的水準の低い独善的宗教と変わらない放逸なやりたい放題の自由主義者だと公言しているようなものである。
筆者は斎藤氏の本を読んだとき、斎藤氏のご意見には一つとして同意することはできなかった。とはいえ、冷戦終結以来、ほとんどの左派知識人が明確なビジョンを示してこなかった中で、斎藤氏が明確なビジョンを打ち出し、資本主義に挑戦状をたたきつけたことは高く評価できるだろう。『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』は、ある資本主義者による斎藤氏に対する回答である。
☆社会主義国の人民も事実好きなものを食べ好きな音楽を聴いて政府筋と同調すれば職業すら選べる豊かな人生を送ることがある。自由主義を極めることよりも、いかに社会主義経済を取り入れるかが問われ、その必要を感じている市民がいかに多いのかというニーズを読み取れる経済学者が残念ながら日本にはいない。
あとがき
日本の経済学者の主流は、東大京大の学者が多く、官僚も同じであるが、世界的な評価はきわめて低い。世界においては貧困問題や教育問題などの人間の倫理基準を満たしつつの公共経済が必須であるという常識が自由主義国家の前提となっているのであるが、日本だけは公共部門をひたすらカットし続けている。26年前に論文で小さいながら警鐘を鳴らしたことが現実の問題になってきたため、さらに日本の経済学者と官僚の瑕疵を追及しておく。
日本国民の死亡のうち完全な自然死や老衰と断定できるものがどれだけあるかと言えば、1パーセント未満であろうと考えられる。哲学宗教と政治経済の誤りによってわれわれの寿命は不当に削られているというのが、私の主張である。
死んだものは仕方ないと割り切る悟りをどれだけ得るかよりも、今これからの生命がいかに謳歌され健康長寿と繁栄をしていくかという基準による正義のほうが絶対的な価値を持つ。
残念ながら現在までの日本の哲学宗教と政治経済は、いくら死亡してもだれも責任を負わなくてよい虐殺の自由主義である。したがって日本人の幸福度はきわめて低い。その因果関係が明瞭であればこそ、こういう記事を取り上げてツッコミを入れるのである。
いくら死亡してもかまわないし、いくら発狂してもかまわないし、いくら犯罪が起きてもかまわないし、いくら収入が増えてもかまわないというのは、すべて同義であり、先進国では覇権国の米中の傾向に似ており、中堅国の日本がとるべき指標ではない。その波及効果は地球上の中小国の貧困層に至って地獄をみているからである。
自由とは弱肉強食の略奪規範の強制強要にすぎない。
グローバル経済の現代こそ宗教哲学や倫理道徳などの人間としての規範と歴史に立ち還った人生設計をしなおすべきである。そもそも自由の前提は衣食住と信教の自由が出発点であり、そこを無視した自由からは不幸しか生じないことが明らかである。
人の衣食住や適正な給与を奪う自由、他人にグローバリズムやブラック企業を強いる自由だけに特化しつつある政治やカルト宗教は断じて許してはならない。