FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

努力と成果と幸福の盲点 人は専門家に踊らされる専門家

f:id:FujiYama:20210902170222j:plain青春期、青年期、中年期それぞれに悩みというほどでもないが、いろいろ考えて進路を決めたり新しい選択をしたりする時に、身近な人や聞いてみたい人に相談したことがある人、あるいはこれから相談しようという人もおられるだろう。

私の場合は、ありきたりに同居したことがある祖父母からたくさんの苦労話や蘊蓄を聞かされて育ったので、中年になってもまだその知識やノウハウを思い出している。戦時、戦地、資産運用、環境激変、身分制、生死、宗教、学歴、学力、生活習慣などなど。

有名大学や上場企業の親戚のおじさんやおばさんたちの話はとても面白くて為になったので今でも参考にすることが多い。

社会や事物事象に対する見方考え方が、日本の伝統と戦後のキリスト教文化の影響のはざまでいかなる変化をしてきているのか、如実にわかる世代の継承がそこにはあった。

今でも悩んだり考えたりすることはあるのだが、その身近な人たちはほとんど亡くなり、痴呆になったり交際がなくなったり、相談する年齢ともみなされない。

頼りになるのは博識な科学者たちのデータのある論かと思った時期がある。できれば総合内科医の経験がある宇宙飛行士を指導する人、みたいな優秀な人になにか聞いてみたい。

すばらしい回答が返ってくるような気がする。

もともとが博識な親戚の助言に恵まれていたから、求めるレベルはそこそこ高い。

人生を俯瞰し、社会の中の立ち位置を考えて、今なすべきことを見定めて全力を傾倒するのが、一般的な人間の目線と行動だろう。

しかしどれだけ専門家や専門職の論文や著作を読んでみても、どこにも欲しい回答は書いていない。こうすべきだとかこうしたらよいというものを求めているのではなく、自分で考えるために必要な材料のレシピが、悩みや課題ごとに違うから、あたりまえなのだが、専門家は細かいことだけ言って、大金と地位を手に入れることにしか興味がないから、われわれにとっては大して役に立たないか、時には害になるようなミスリードのタイミングの情報というのも出てくる。別の機会には有益になるからマシだが。

健康体で知識が豊富で専門領域に明るく科学的に確固たる実績と地位を与えられて、科学者たちは優秀さの浪費をしていることに気が付かないわけではないが、時間管理上自分のことは疎かになる。収入はよいので生活費や健康管理費全般には困らないが、今の健康がまったくあてにならない医者の不養生が多発する。親族がうまくいかなくなることも多い。

科学者だけあって、死ねばそれで終わりになると考える人が多く、親族といえども他人の意思決定の問題に責任など感じるはずもなく、ある意味合理的にものごとを見て、ある意味不健康な追い立てられる日々を送る。

優秀さというのは、活用して地位や資産を得るためのものであり、しかも社会貢献になる科学的に肯定される実績記録であり、なんにも問題のない人生を送っているかのように思える。

しかしわずかでも考えると、そこまで浅はかに喜べない。

人間の努力と成果は、必ずしも他人に評価されていないし、報われない大勢の人たちがいることに対して、専門家はなにも感じない。

自分は専門家だから評価されるのが当然だが、そうでない専門家がいくらでもいること、最低時給以下で専門的な職務をこなす人たちがいることを、今一度考え直すことが人間としてのバランス感覚だと思う。

高齢者障害者の生活が苦しいという場合に、そこに問題を感じないし、待遇を良くしてやろうという行動がとれる専門家が著しく少ない。

お困りのことがあれば、ご相談に乗りますよというのも、自分の専門の維持のための具材にすぎず、実際不遇の人たちの困りごとなんてそうそう解決するわけもない。

富裕層は貧困層に努力を求めているが、出来るのであれば、最初から努力しているだろうなとしばしば思う。

生きてるだけで努力をしているし、生体機能を維持しているだけでも努力であり、いかなる精神でいかなる努力をいかにするかという具体的な話がない。

他人の事情に関して、個別にきちんとした相談やカウンセリングを通して、精神と努力内容を詰める専門家が不足し、もうひとつには無視されている。

開業医がいくら優秀で5千万、1億かせいでも、連日貧困層の一人や二人の人生を変えるほどの助言は実際上難しい。それは稼ぐのに優秀なだけの場合。

外科手術の数を競って、多くの患者を弱らせる医者は執刀経験が優秀なだけの場合。

ほとんどの専門家はそんな不毛な職務を日夜多忙を極めてこなし続ける。

これでは、人類社会は優秀な一群が食いつくす流れにあるだけの野蛮な弱肉強食の世界で終わるに決まっている。

優秀な一群はたしかに資産に恵まれ健康に恵まれ、人間らしい生活のように見えるが、優秀だ優秀だとおだて上げられて気分をよくしている人食い人種に過ぎない。

私利私欲や名聞名利の罪業というものの顕著なものは、優秀さが際立つ人たちほど膨大であり救いようのないレベルになっていく。

国際人道支援活動なんか見ていると無駄なことをしているように見えるから、私利私欲のほうがまだマシだという発想もわからなくはない。

しかし人類の存続も、それならなにもかも無駄だとも言えるわけだから、不幸な人や困窮している人をいかに救うかという命題は、やはり人類普遍の価値観であると言える。

そこのところが、どうやら天照や八幡さんたちでは難しいようだ。

日本人は資産になる徒労(人生の浪費)が大好きなのである。

かろうじて貧困対策らしきはやるのだが、効果なんてゼロに近い程度しかやらない。

子育て支援はと言えば、児童幼児虐待しても構いませんとか、精神保健を普及させようと言えば、精神病者の死亡にはなんら問題がないとか、めちゃくちゃなことばかり言えるのが、専門家であり、まわりまわってだれもが不幸になっていく。

年を取ったら終わりになると洗脳されて、年金は引き下げの方向になった。

優秀な一群のための生け贄になる一般庶民たち。

そこになにも感じないで、鼻歌を歌える優秀な一群の残虐性。

この生まれつきの優秀さや貧困や突発的な困窮状態やアクシデントに対するあらゆる人にとって有効な方策が、日蓮大聖人への相談とも言える日蓮正宗における唱題である。

現状の動物としての生涯をより幸福にしようとする努力と成果は全員に存在しており、それなりに私はみなさんが幸福だろうと思っている。

それと同時に日本人はみなさんが不幸な人たちだなとも思っている。

せっかく人間という精神を選択できる生き物に生まれて、ボス猿になりたいとかバナナがたくさんほしいとかいうだけに等しい優秀な人生とやらを送りたがっている日本人は、ふつうに不幸にしか見えない。

科学的データの切り取り方、条件を見直して、もっと役に立つデータにすればよいのか、という次元の問題ではなく、優秀な人ほど根本的に魂を、心を入れ替えて、これから人類に有益な個人個人の問題と向き合っていくことができるように願う。

意志の力、意欲の喚起、健康の回復、習慣の改善、知識の再認識、人格の再構築、魂の若返り、高次元な精神、高知能者の魂などのすべてを完全に理解しなくても、現実に改善していく方法、方策が具体的に存在しているものを無視するのは人間としていかがなものか?