ご家庭に神棚があったり仏壇や祭壇があったり、あまりに個人的な宗教について共通の考えと固有の考え方があって、これは論じるのも記事にするのもたいへんなお題。
自分の成育した家庭には神棚があった。カルトが有害なことは誰でもわかるのだが、その他の知名度の高いある程度の規模のある宗教になると、うちは伊勢丹によく行くとか三越の常連だとかいうのと大差なく、大金を投入してケロリとしている人も多いから不思議だ。20歳くらいまでなら疑問を抱いたってあまりご利益はないので、家の宗教におとなしく従ってよい教育を受けさせてもらったほうが賢明だ。逆にそうでもない病んでしまうような10代なんかは、とっとと宗旨替えと世帯分離をしたほうがよいのだが。
仏教の言葉に依法不依人という言葉がある。これは刑法の証拠主義というわけでもない。法令を遵守していれば足りるというわけでもない。
いずれかの家庭に生まれて、様々な成育環境に置かれ、様々な社会人としての生活の中で、なにを根本の基準としてあらゆる判断をしていくかという指標になる言葉だ。
カルトやおかしな宗教であれば、依るところの法がおかしいから周囲の人が自分に求めてくることがおかしくなり、修正がきかずに苦しむことになる。金がすべてだという法によれば養育費をかけずに虐待するとか、財政収支均衡がすべてだという官僚慣例法によれば地方公務員が薄給に苦しむとか、事例など星の数できりがない。これを正しい法にすれば間違いが起こったときに修正がきくというのが、依法不依人の真骨頂である。
よく無理をしないようにと善意で言う。これは端から見ていればわかることで、自分ではわかりにくいこと。しかし周囲がそんな善意を発言することはあまりないし、実行は難しいことが多い。
科学的知識に基づいて食生活を維持したり適度な運動をするとか、伝統的な食事で健康的な生活を送るとか、学問を重視してまちがいなく生きようとか、誰それがよくわかっているから助言に従おうとかいう生き方を選ぶときに、それらのいずれも間違いが起こりやすいことに気が付くはずだ。最善の努力はするが、結果が伴わない事例が山のようにある。伝統信仰や科学信仰である。
正しい法なんて言ってみても、あらゆる知識や研究内容を網羅して総合的に今日の食事内容を決定し計画的に生活を送りなおかつ様々な人の発言を受け止めながら正しく生きるというのは、誰にとっても至難の業である。科学的に正しいはずの生活をしていたはずという人はほんとうに多い。ワイドショーなんかに振り回されどおし、誰それに振り回され、誰それの言うことに従い、ベストセラーを信奉し、医師の言うことは絶対だと思い込み、フィナンシャルプランナーのおかげで幸福を満喫できるという浅い幸福感によって人生を棒に振ることになる。それぞれ科学的に正しいものや博識だったり経験豊かな人の発言だから影響されるのは仕方ないし、いくらかの参考になるという印象のことを言っている。しかし、それはあなたの人生、生命の全体観からすればほんの些細なものを針小棒大に言っていることが多い。ただ不勉強なうちは聞いておいて問題ない学習段階であるが、知識と判断はまったく別のモノであり、個別的な判断が正しくできるかどうかのほうが、はるかに重大な問題である。
人は人のために働いたり助言したりすることはできるが、あなたの人生はどうすることもできない。もしなにかできるとしたら邪魔したり搾取したり破壊したりひどい場合は侮辱したり否定したりということすらあって不愉快極まりない。つまり一義的に正しいことにかえって損害を被ることが圧倒的に多いということに注意しなければならないのだが、周囲の適切なアドバイスだけでもこれは修正がきかないことが多い。大枠を間違えつつ部分修正というやり方に終始する人生がほとんどである。極端な話、最善の努力と修正を繰り返した挙句に若年や中年で自殺する場合などがある。
表面的には努力して家族関係や仕事が上手くいっているように見える人でも、正しい法によっている部分とそうでない部分がある。正しいからうまくいっているのではなく、部分的に正しいからうまくいっている。生まれや運命やめぐりあわせのよさで、今、とりあえずうまくいっているというだけで、一人前の顔はしているがなにが正しい法なのかを実はわからないのが生まれながらの人間である。そしてだからこそ、生存権が重要視されるのである。なにがなんだかわからない生き物を虐殺してはいけない。
カルトの特徴として、しばしば誰それや宗派にすべてを預けるという言い方をする。これは非常にわかりやすく危険信号がともったと思わなければ危ない。創価学会で誰それの言いなりになって自分の子を虐待死させたとか、浄土真宗で全財産を巻き上げられたとか、神道に商売の利益をみんな持っていかれてトラブル続きになるとか、いったい冷静に考えてどうしてそこまでしたのかということを皆さん平気でやっている。医師を信奉して外科的手術を繰り返し受けて衰弱して早く亡くなるという方も相当数いる。
どんな社会的信用のある人であっても、人に依って人に従うことは極端な危険を伴うという厳然たる事実事象が、この地球上に満ち溢れている。歴史を見れば時にしばしば国家も故意に間違える。国家主義は虐殺が正義である。
正しい法を知らない間は、哀れなヒト生物として怯えて暮らさざるをえない。資産や収入があってもそれは大差ない。確率論で死亡しても一切問題ないとされる社会にあって、本当に安心して各種ワクチンが打てる人もいない。ワクチンより危険な事象が生きていればそこかしこ。
どんな環境になっても、どんな政治になっても、どんな自分になっても、ヒトは生きていこうとする。幸福を求め、持続させようとするのは、変わらない。悪人だろうが、女性だろうが、才能があろうがなかろうが、自己の利益を最大化して持続しようとする。
幸福を求めているはずなのに正しい法を知らずに武力行使し刑事事件を発生させ自殺し間違っているものを正しいと従う。
正しい法ならば、今、今日あなたにとって重要なこと、中長期で重要なこと、死後の地球人類まで見通して正しいことを基準にするようになるはず。各人各様の生活の中でそのことを具体的に発見し気が付き愚かな行為は慎むはずである。伝統に著しく合理性を欠くものがあれば気が付く。有意義なものがあれば謙虚に尊重する。
正しい法の法典は日蓮大聖人の御書と日興上人の御事跡に具体的であるが、これは大学生や大人が学ぶのに数年以上かかるもので、一応勧めはするが正しくマスターしなければかえって危ない。日蓮という人が言っている御消息文は、想定した人を相手に言っているので、あなたとは事情が違う。日蓮という専門職業僧侶が言っている論文は、在家の一般人が理解するのはハードルがある。四書五経に親しんだようなレベルでなければ正しい解釈は困難である。なおかつ正しい法といえば、その御書を勝手に解釈する宗派がたくさん乱立して危険であるということだ。人に依るなという第一は取り違えはき違えが発生することが多いからであり、正しい法を理解する際にもそこのところが禅譲など悟りなしには不可能に近い。
悟りという怪しげで不確かにしか思えない言葉、気づきというその当人の利益でしかなさそうなもの、正しいという主観的に見える判断、そういう価値感が錯綜した紛らわしいものをいくつも見て読んで経験した時に、たいていの人間は考えることを諦める。たいして良くない頭で無駄に悩み、考えることが時には不健康ですらあるからだ。
なにが正しい法という言葉の根拠かという難しい問題がある。私は日蓮正宗での経験で、いかなる人もいかなる状況の中でも悟りをもって生きられることではないかと思う。正しい解釈・認識・判断等を担保する法(修行システム)が正しい。
老若男女、貴賤上下、貧富、障害の有無などの個人差とその現在の状況がどんなものであれ、日蓮の覚知した正しい法である本尊に唱題をすることで、最深部に至る悟りを得られることが、正しいと言える根拠だ。
若いから、経験があるから、男だから、女だから、勲章があるから、庶民だから、大臣だから、中卒だから、資産があるから、今日ようやく食べられるくらいだから、足が一本ないからなどの歴然とした違いがあるにもかかわらず、なるほど救われた、これで自分が幸福になったのか、無限の宇宙と一体感を感じたなどの、その時々その人なりの感じ方はあるが、悟りを得ることが出来、異口同音に幸福であると言うのは、具体的な効果があることを示している。正しい法には、具体的な修行法に唱題の形式として大石寺があり、具体的な御書の読み方の指南として歴代法主の活字がある。逆に言えばあとはなにも必要ないのである。人の話はすべて参考程度に自分のことは自分で判断できるように自由を満喫するべき。
ヒトには義務教育レベルをきちんと施して図書館とインターネット環境を整備していれば、この世に先生や講師というものはほとんど不必要になる。技術指導なんかは直接指導が必要だから師弟関係がどうしても必要な分野があるが、そうでないものはソファーでネットから視聴すればだいたい足りるのではないかとすら思う。学校教育は言うまでもなく重要だがロスが大きい。やりたい勉強を選択しても若気の至りのケースがほとんど。
怪しげな有名講師というものが五万と溢れてみなさんの幸福をかすめとっていく。せっかく人間に生まれたのに欲情ばかりしている社会人が多いのは教育上も劣悪な環境。人間が人間である条件は生活環境や生活習慣を含めた宗教なので、これを後回しにして楽しみ努力することのなんと迂遠な道のりか。個人を尊重することと私利私欲に偏向することは同義ではない。
ほんとうに正しい規範的宗教を見定めることを、特に成人した社会人はきちんと考えなければならないと思う。間違った法の間違った宗教によって死亡していく大量の犠牲者が後を絶たない。
わたしは自分が生きている間に、人類みんなが日蓮正宗の信徒になることは不可能だと思っている。釈迦や日蓮というヒト知能をはるかに超えた仏の悟りの目線では鎌倉時代からカウントして一万年後のまだその先未来永劫にも日蓮正宗(大石寺と法主)は永続することになっているから(地球滅亡の日まで)、その頃になると活字や経験談がひろまって多少の割合の人類がそんなによいものならと信徒になることも考えられるが、まだまだ無理だろう。しかし、一人でも多くの人類に懸命に幸福になってほしいという願いはある。
そこでみなさんの幸福を願って、涅槃経の「法に依って人に依らざれ」「義に依って語に依らざれ」「智に依って識に依らざれ」「了義経に依って不了義経に依らざれ」との法の四依でこの記事を閉めたい。
現在の宗教から簡単に抜けられない人や宗教なんてまったく信じていないという人であっても、生きていく上でこの四依がきわめて重要な指針になるだろう。ちなみに了義経というのは法華経のことであり現在の末法時代にあっては日蓮正宗総本山で法主とともに南無妙法蓮華経と唱題することである。